魔女の本領
民主的な解放を創り出す秘めた力をもつ者…

Diva Nation

『Diva Nation: Female Icons from Japanese Cultural History』


私、自慢ではないが英語が出来ない。少々のスペイン語はできるけれど、英語は無理。であるのではあるが、日本文化における女性像が海外においてどんな風に論じられているかについては些かの興味があり、挑戦したのがこれ。

『Diva Nation: Female Icons from Japanese Cultural History』 Laura Miller and Rebecca Copeland 編。未翻訳。

本書は2012年のミズーリ州立大学で行われたシンポジウム「Pop Heroines and Female Icons of Japan」から出発した日本の文化、特に女性の文化的アイコンの在り様についての多国籍な研究者の研究成果である。本のメインタイトルが「Diva Nation」となった点で、日本語のイメージは国家の女性神というように重点が移動したようにも見えるが、副題に於いて、歴史的かつ文化史的な意味での女性のアイコンという風に時系列が拡大し、その系譜が現代に至るまで継続するアイコンという捉え方が提示されている。

各論者がとりあげているアイコンつまり女性神は桐野夏生によるイザナミ、アメノウズメ、卑弥呼、出雲阿国、美空ひばり、オノヨオコ、IKKO、内田春菊、金原ひとみ、浅田真央。なお、論考の中ではさらにろくでなしこ、一条さゆりなども含まれる。日本研究者も含まれるとは言え、外国籍の研究者が日本文化、とくに日本の歴史的な人物についてのべるということの新鮮さは好ましい。なぜなら、今若冲が突如ブームに浮上したりするのはほとんどが海外での評価が逆輸入されて、そうなのか?そんなにいいのか?という怪しげな流れによることが多々あるからであるが、絵画は視覚に訴えるものであり古くはジャポニズムとして西洋に影響を与えた歴史的経緯はある。サイードがオリエンタリズムとしてその権力構造を批判した点を忘れてはならないが、今現在日本文化の、とくにマンガの世界席巻は実は私にはよく分からないのだ。とはいえ海外の研究者が視点を定めた女性神にはそれだけのインパクトがあることは無視し得ない。

全ての論考を読み切って論じる実力もないので、この中で日本研究者Tomoko Aoyama 氏の論考から見えて来る日本文化のなかの女性神の存在についてのささやかな感想を記して見ようと思う。

彼女が取り上げるアイコンはアメノウズメである。きわどい!!もちろん、古事記、日本書紀に登場する非常に重要な意味をなす存在ではある。その意味合いはこの世が陥った危機を救った存在としてであり、それも性的な振る舞いで笑いを起こすことで岩屋にこもった母なる神、アマテラスをこの世に引き戻したと言う神話によるわけである。本論考の主眼点はアメノウズメが境界は越えると言う点であろう。その点へ収斂させる前に、アメノウズメが岩屋の前で行った行為は何だったのかが論じられるが、いわゆる後世の演芸のストリップにあたるとこれまでは表象されてきた。それ故、アメノウズメの役割は笑われる対象としての演技者としての存在であったと言う点から一歩進めて、国家的危機に際して周到な準備の下に、笑う人を従えての演技であったという指摘は新鮮であった。笑いという事だけをとりあげても大きな問題である。神は笑うのか?笑いを許すのか?キリスト教においてはどうなのか?そんな疑問について思い出すのはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の中にある。修道院の中で論議が行われていた主題がキリストは笑ったか?と云う事だったのだが、嘘かと思ったら、事実であったようだ。笑う事はかなりの程度、はめをはずす、権威をコケにする、秩序を解体する、そういう事象であることは大体想像がつく。カーニバルがそれに当たるだろう。この辺はバフチンの独壇場であろう。キリスト教以前のカーニバルは収穫祭であった。そこでの踊りは猥雑で、性的分業の交代、女装・男装の交換などが行われる例は日本でも、外国でも同様である点は重要である。性的な擬似行為としての踊りは豊饒を願う意味であり、民衆にとっては日常であったようだ。

アメノウズメの存在を人類学から見ると、かなりの普遍性をもって語られるようだ。山口昌男ならば当然、周縁と中心、内と外の概念から説くであろう。女性性器はまさに境界であり、後世ストリッパーが性器を見せることを御開帳と表現したのはそこに神が宿っている。それを見せると言う含意である。女性の霊的力がどこに宿っていると私たちの祖先は考えていたのかは想像でしかないが、やはり子供を生める力は神と繋がった力であり、性的に内面にこそ霊的力があると考えたと思う。洞窟と暗部、女性の霊力という関連性は沖縄に伝えられる女性のシャーマンの存在にも見て取れる。御嶽(ウタキ)における歌い踊る祈祷。手元にないが、谷川健一の書籍にあったはず。あれは神秘化されているけれども、アメノウズメの霊的存在を伝える一つの在り様のような気がする。細かい神話上の記述におけるアメノウズメの記述について古事記と日本書紀の細部の違いにつては知らなかった。しかし一般論として日本書紀は国家の統一と正当性を確立することが目的であることによって、不都合なものは省かれ、古事記のより古く根源的なものは消されたと言う事はかんがえられるが、岩戸の前の演技について、日本書紀には衣装は書かれているが性的な踊りは書かれていないと言う点に、意表を突かれた。詳細な点はサルタヒコとの関係でサルタヒコとの遭遇の際に彼を威圧するために陰部を見せ勝利したということになっているそうだが、性的な霊力が消滅することはないにしても、笑いを呼ぶことにより世界の回復の力を果たした霊力の衰退を印象づけられる。

筆者が最も意を用いたと述べている鶴見俊輔のアメノウズメ論について、鶴見の原本を読んでおらず自信がないが、読後感としてはアメノウズメ論よりみえる鶴見俊輔論と云う感じで、興味深く読めた。特に民主的な解放を創り出す秘めた力をもつ者としてのアメノウズメという位置づけは鶴見ならでは、ではないかと思われた。鶴見の伝記的な存在の特殊性、とくに姉和子との関係性を確かに和子がアマテラスであり俊輔は若い時はスサノオでありその後はその影のようにも見えてしまった。和子と俊輔は戦争直前アメリカから最後の交換舟で帰国した後、戦後になって見慣れた和子の姿は和服を着てきりっと前を見ている学者であるのに対して、俊輔は知る限りでは社会との密な関係を維持するフレキシブルな存在であり、いわば彼こそが社会を揺り動かす笑いを提示するアメノウズメのごとき存在に感じられた。「思想の科学」、「共同研究 転向」、ベトナムに平和を市民連合の結成、ジャテックの裏方。彼が民主主義を生み出す存在としての性的な自由と笑い。一体彼が言うようにそれが時空を越え、時代を越えて現代に流れ込み晴れやかな日の光を広げているだろうか?残念ながら今の日本は多分真逆へと落ち込んでいる。

本書が日本文化の中の女性のアイコンを重要視して書物にしたことの意味は非常に重い。いま日本では世界で最も女性が社会進出できず、性的な暴力に苦しめられ、子供を生むことさえも躊躇わせられ、自由が奪われている実体の方が世界では不思議に思われるのかもしれない。だからこそ本書が海外の研究者を含めて研究され、出版されたことに感謝の念を捧げたい。

魔女:加藤恵子