情熱の本箱
『夜と霧』のヴィクトール・フランクルが心の底から愛した妻・ティリー:情熱の本箱(287)

『夜と霧』のヴィクトール・フランクルが心の底から愛した妻・ティリー


情熱的読書人間・榎戸 誠

『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』(ヴィクトール・E・フランクル著、霜山徳爾訳、みすず書房)を補完する続篇ともいうべき『夜と霧の明け渡る日に――未発表書簡、草稿、講演』(ヴィクトール・E・フランクル著、赤坂桃子訳、新教出版社)を手にした。

巻末の「ヴィクトール・E・フランクルの生涯と仕事」には、こう記されている。「1941年12月17日、彼(ヴィクトール)はロートシルト病院の病棟看護師のティリー・グローサーと結婚した。ほどなくロートシルト病院が閉鎖される。それにともなって医師と看護師、彼らの家族の(ナチスによる)移送停止の措置も解除された。彼のアメリカ入国ビザが失効してから2年もたたない1942年9月に、ヴィクトール・フランクルと妻ティリー、両親のガブリエルとエルザ・フランクル、ティリーの母エマ・グローサーは、ウィーンの数百人のユダヤ人たちと一緒にシュペル通りのギムナジウムの『集合場所』に集められた。35歳になっていたフランクルは、これまでの人生の思い出の品々と決別しなければならなかった。・・・1944年10月19日に、ヴィクトールとティリー・フランクルはテレージエンシュタットからアウシュヴィッツに移送された。後になって振り返ってみれば、それ以降の日々と比べれば、テレージエンシュタットにいた時期はまだましだった。・・・ティリーも近くにいた。だがアウシュヴィッツはすべてを変えてしまった。『アウシュヴィッツに到着したとたん、私はすべてを投げ出さなければならなかった。自分が持っていた衣類と、こまごまとした最後の財産である』。こうしてフランクルはコートに縫いつけてあった『医師による心のケア』の原稿も失った。アウシュヴィッツでティリーとフランクルは引き裂かれてしまった。その後、二人が再会することはなかった」。

「1945年4月27日、アメリカ軍によって強制収容所から解放されたフランクルは、バイエルンの保養地バート・ヴェリスホーフェンにある戦争難民のための軍病院の医師として配属された。フランクルはそこで約2ヶ月勤務した。だがウィーンに一刻も早く戻り、母と妻を探したいという気持ちに駆られ、1945年7月にバート・ヴェリスホーフェンの勤務をやめ、ミュンヘンでウィーンに行くチャンスを待つことにした。・・・1945年8月にウィーンへ戻るその1日前に、フランクルは母親がアウシュヴィッツで殺されたと知らされた。ウィーンに到着した1日後には、妻がホロコーストを生き抜くことができなかったと伝えられた。彼女は長い収容所生活の影響で、ベルゲン・ベルゼン収容所から解放された数日後に亡くなったのである」。

1945年11月6日付けのグスタフ(ティリーの兄)とフェルディナント(ティリーの父)・グローサー宛ての手紙には、こういう一節がある。「ティリーと私はアウシュヴィッツでも会い、話をしました。私は彼女に大声で言いました。『どんなことがあっても、とにかく生きるんだ!』――到着したその日に、彼女は塹壕工事の要員としてブレスラウの近郊のクルツバッハ収容所に移されました。1945年1月に彼らは徒歩で西に向かいましたが、そのあと彼女がどうなったのか、消息は不明です。彼女がいつベルゼンに着いて、いつそこで亡くなったのか、私は必死になって調べましたがまだわかっていません。でもある手紙を入手できました。以前に同じ病院に勤務していた同輩の看護師が彼女のことを書いている手紙です。この同僚本人もひどい病気にかかったのですが、『言葉で言いあらわせないほど恐ろしい』経験をしたとありました。彼女はロートシルト病院の看護師の中でたった一人生き残りました。他の看護師たちは発疹チフスで死亡したとのことです。この手紙には死亡者リストもあり、そこに『ティリー・フランクル』の名前もありました。私はウィーンに生還した女性から、この『言葉に言いあらわせないこと』について説明をしてもらいました。その内容についてはとても書けません。不運にも、私が人生で出会った最高のものが、この世界がこれまで見た中で最低のものに捕らわれてしまったのです。ダッハウ・カウフェリング強制収容所に着いてすぐ、私が天に契約を申し出たことについては、神が証明してくださいます。生きて逃れる見込みは自分にはないと予見した私は、主なる神に、おのれの命をティリーの命の代わりに奪ってくださいと祈りました。・・・短い結婚生活で、ティリーは私にとってあまりにも完全な幸福だったので、私は謙虚にならざるをえないのです。たとえそれがたった1日だったとしても、これほどまでに完全な幸福をこれまで何人の人が経験できたでしょうか?・・・私はもはや失うものなどないのです。すでに自分にふさわしいもの以上のものを私は手にしました。私はいつも大まじめで言っていました。自分はティリーには値しない人間だと。それどころかこの世界は、そこに彼女ほどの人間が存在するにはふさわしくないものでした。・・・自分の家を出て、ふらふらとヌスドルフに行き、ティリーの生まれた家の前を通りすぎたり、彼女とはじめて初春の散歩をした『ベートーヴェンの小径』を歩いたりすると、小学生のようにおいおい泣いてしまいます」。

1945年11月17日付けのステラ・ボンディ(ヴィクトールの妹)宛ての手紙には、こうある。「僕は1944年10月にアウシュヴィッツに移されました。ティリーは(僕が)やめろと言ったのに、僕に内緒で自分から移送してくれと申し出て、残念なことに唯一の例外として許可を得ました(僕たちは軍需工場に回されるものと思っていました)。アウシュヴィッツで僕たちはごく少数の人とともにガス室送りを免れました。彼女は土木作業の要員として、ブレスラウ近郊のクルツバッハ収容所に収容され、それからベルゼンに移って、そこで発疹チフスのために亡くなりました。この事実を僕がようやく知ったのは、ミュンヘンからウィーンに戻った8月のことでした。・・・僕がいくつかの強制収容所で経験したことは、簡単には説明できないし、苦難をともにした仲間にしか理解できないでしょう。僕がなんとかやっていけたのは、ママとティリーに再会するという希望があったからです」。

ずっと以前から、ヴィクトールが心の底から愛した妻・ティリーの写真を見たいと念じてきたのだが、本書のおかげで、この願いが遂に叶えられた。ヴィクトールとティリーの結婚式で撮影されたものである。