情熱の本箱
『ドイツ参謀本部』は、日本人による著作の中で上位にランクされるべき傑作だ:情熱の本箱(298)

『ドイツ参謀本部』は、日本人による著作の中で上位にランクされるべき傑作だ


情熱的読書人間・榎戸 誠

『ドイツ参謀本部』(渡部昇一著、中公新書)を39年ぶりに再読して、これは、日本人による著作の中で上位にランクされるべき傑作であると確信した。私の確信は、下記の3つに基づいている。

第1は、世界に冠たるドイツ参謀本部の歴史が、簡にして要を得た表現で記されていること。

ゲルハルト・ヨハン・シャルンホルストからアウグスト・フォン・グナイゼナウ、カール・フォン・クラウゼヴィッツ、ヘルムート・カール・フォン・モルトケ(甥のモルトケと区別するため、大モルトケと呼ばれた)へと受け継がれた脈々たる流れが、ドイツ参謀本部を優秀たらしめたのである。

第2は、ドイツ参謀本部の歴史の中で屹立しているクラウゼヴィッツとモルトケの事績が、格調高く、生き生きと描かれていること。

「二冊の本がその後のフランスとドイツの運命を、つまりヨーロッパ大陸の運命を決定したと言ったら誇張のように聞えるかもしれない。しかし19世紀の後半に、オーストリアとフランスという二大陸軍国がプロイセンによって、短期間に、簡単に、しかも徹底的に粉砕され、ビスマルクによってプロイセン中心のドイツ統一が成立したことが、ヨーロッパ大陸の近代を決定した、と言うことが許される限りにおいて、ヨーロッパの運命はまさに二冊の軍学書によって決定されたのである。その一冊はジョミニの『戦争術概要』であり、もう一冊はクラウゼヴィッツの『戦争論』である。両者ともナポレオン戦争に参加し、実戦の経験も、参謀将校としての経歴も豊富で、両人とも後に大将に昇進し貴族に列せられている。この二人はそれぞれナポレオン戦争の体験や戦史の知識を素材として軍学書を書くのである。ジョミニの書は直ちに大きな反響を呼び、ヨーロッパ各国の軍隊で争って読まれた。これに反し、クラウゼヴィッツの本は、プロイセン参謀部外ではほとんど知られなかった」。

「そしてその決算は、それから約30年後の普墺戦争と普仏戦争に現われる。深い哲学的考察が3つの国の運命に重大な影響を及ぼしたのだ。つまり深淵な戦争哲学を学んだプロイセンは勝ち、哲学抜きの戦争術を学んだオーストリアとフランスは完膚なきまでに敗れたのだ。まことに深き思想の力の大きいことは、恐るべきものと言わねばならない」。この渡部昇一の格調高い文章には、完全脱帽あるのみ。

すなわち、戦争の「技術論」は、戦争の新しい「哲学」によって粉砕されたのである。「この『哲学』を編み出した人物が、クラウゼヴィッツなのであった。・・・クラウゼヴィッツの残した手記によると、彼は体系的なことに関心を払うことなく、戦争の最重要な諸点について彼が独自に達した結論を、非常に簡明な圧縮された形でのべようと意図したらしい。その際、漠然と手本と考えていたのはモンテーニュの『エッセイ』であった。しかしヘーゲルより10年若く、ヘーゲルと同じ年に死んだ彼は、やはりヘーゲルに代表される当時のドイツの知的雰囲気の人であり、共通の知的特色を示すに至ったことはまことに興味深い。彼は研究に没頭するにつれて、はじめは関係なくばらばらに書いていった諸現象を連ねるような諸章が書き足され、圧倒的な戦争論体系が姿を現わし始めるのである。彼の野心は、2年や3年後に忘れられてしまうようなことのない書物を、そしてこの問題に関心のある読者ならば必ず一度以上は手に取るような書物を書くことであった。そして、その野心は実現されたのである」。『戦争論』が、クラウゼヴィッツの「死後、出版してほしい」という遺言を守った妻の手によって出版されたことは、実に感慨深い。

「クラウゼヴィッツは、戦争の無限定性とそれに付随する諸性質を何人も意義をさしはさむことを許さぬ明快さと徹底さをもって、説きすすめてゆく。国際法上の慣例は、戦争という名の暴力に対する制限であるが、それは極めて些細なほとんど言うに値しないほどのものだと片づけられる。そして戦争の本質に対する考察は意外な方向に発展し、『戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならぬ』という有名な結論に導く。戦争は政治である。いかなる種類の戦争でもすべて政治行動と見なされうると言うのだ。そしてこの戦争観こそが、戦史を理解する鍵となり、戦略を確立するための基礎となると言うのである。これこそ近代の『全体戦争』あるいは『総力戦』の理論の出発点であり、それ以前の戦争論と決定的に袂を分つところなのである」。

「クラウゼヴィッツが全世界に知られるようになったのは、大モルトケが、クラウゼヴィッツ哲学による『武装国家』の威力をまざまざと世界に示してからのことである。フランス陸軍がクラウゼヴィッツを発見したのは1880年代のことで、普仏戦争でフランスが手ひどく敗れてからであった。・・・日本においてはその紹介が森鷗外を通じて行なわれたという点で特別な文化的意味を有する」。

「モルトケが徹底的に重視したのはロジスティックスの上で重要な一翼を占める鉄道である。彼のその後の戦略構想や成功はこの点によるところがまことに大きい。・・・このように鉄道という視点からすべてを考え直したモルトケは、参謀本部の編成をも変えた。・・・モルトケは『電信部隊』を創設し、『鉄道部』を新設した。前者は各野戦軍に属し、後者は参謀本部にあって、敏速な兵員輸送のためのあらゆる鉄道時間表を準備する仕事をやった」。この戦略構想が、その後のデンマークとの戦争、普墺戦争、ナポレオン三世を捕虜にした普仏戦争――で遺憾なく実力を発揮し、味方に劇的な大勝利をもたらしたのである。

第3は、参謀本部がいかに優秀であろうと、国家のリーダーが優秀でないと国は滅びるという深い歴史認識が示されていること。エリートに対する劣等感からアドルフ・ヒトラーが参謀本部を敵視したドイツが、その好例である。「プロイセン=ドイツ参謀本部は、近代史の動向を左右するほどの意味を持つ組織上の社会的発明であった。しかし、それはビスマルクという強力なリーダーとモルトケという有能なスタッフの組合わせの時だけ、めざましい効果を示したにすぎない。その盛りの時には奇蹟を生むほどの力を示したのに、それは極めて短い期間しか続かなかったのである。強力な大組織におけるリーダーとスタッフのバランスの難しさを示して余すところがない」。