情熱的読書人間・榎戸 誠
『本当はこわいシェイクスピア――<性>と<植民地>の渦中へ』(本橋哲也著、講談社選書メチエ)は、シェイクスピア作品を「性」と「植民地」という切り口から読み直すという意欲的な試みである。
「キャリバンは怪物か?――『テンペスト』の魔術と呪術」、「シャイロックの財産はどこへ?――『ヴェニスの商人』と放浪する資本」、「クレオパトラの鼻の高さは?――『アントニーとクレオパトラ』と魔女の血筋」――も興味深いが、私にとって、とりわけ考えさせられたのは、「デズデモーナに子どもができたら?――『オセロ』と逸脱する性」である。
「ヴェニス社会は、オセロとデズデモーナとイアーゴをめぐる『悲劇』にどのように対処するか? この劇が結局、『馬鹿な黒人男が、悪魔のような白人男に騙され、無垢な白人娘を殺してしまった話』で終わらないとすれば、その終わらぬ余剰部分に、どんな問いを読みこむべきだろうか?」。
「『オセロ』がいまだに私たちを動かし、不愉快にさせ、悩ませるとすれば、それはこの劇が、白と黒、男と女、上と下、規範と逸脱といった二項対立をこれ以上ないほど熾烈に描きながら、その対立関係を交錯させることで、一方の他方による容易な制圧を許さないからではないだろうか?」。
「『オセロ』は、出自や環境による隠微な<性>(性的行動の主体であるセックス、社会的性差であるジェンダー、性的欲望や志向を示すセクシュアリティ、本質や本性というアイデンティティなどすべてを含む)の差別を描くことによって、奴隷労働力と植民地支配から成り立つヴェニス社会体制の矛盾を執拗に追及する劇である。この劇では、人種と性差、それに階級差別に基づく家父長制度のイデオロギーが、恐るべき力で登場人物たちを捕らえていながら、所々で破れ目を見せているのだ」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちた。
「『オセロ』の描く肌の色による差別が、キプロスという植民地を抱えたヴェニスの社会的分業体制と不可分であることに、先ず注目しよう。『オセロ』におけるヴェニス公国は、自らの力だけでは、自らの最大の敵、この劇における不在の絶対的他者とも言うべきオスマン・トルコの軍事侵略を防ぐことができない。・・・そこでヴェニス支配層は、黒人の傭兵将軍、ムーアと呼ばれるオセロに頼ることになる。・・・一方オセロ自身も、おのれの欲望をキリスト教的な家庭規範に合わせることで、自らの異人性を隠蔽しようと試みる。・・・同様にまた、ヴェニス社会の中核をなしているキリスト教徒の白人たちも、一方で、オセロの本質的な『黒人種性』と自分たちの出自を弁別しながら、他方で、オセロの軍事的才能が自らの支配下にあることを主張し、トルコに対する軍事的優越がオセロの存在に依存していることを隠蔽しようとする。そのことで初めて、オセロを対称軸とする、ヴェニス白人たちの自己形成が可能となる。このように、主体の形成における支配者と被支配者との一種の共犯関係が、植民地における社会的力学を支えているのである」。
「イアーゴが露骨に表現するように――『年のいったくせにさかりのついた黒い雄羊が、あんたの白い雌の子羊にのっかってますぜ』――、オセロとデズデモーナは、人種、肌の色、気質や年齢など、様々な点で著しい違いを強調されている。どんな状況でも子どものように純真でひたむきなデズデモーナ。彼女の熱烈な愛情を扱いかねて、しばしば戸惑うオセロ。そこで、なぜデズデモーナがオセロのような自分とは出自や文化背景も違う男を愛するようになったのかを考えてみよう。・・・オセロとの秘密の結婚は、デズデモーナにとって、父親の専制から解放され、狭いヴェニス白人社会の規範から逃れる方策でもあったのだ。デズデモーナは単なるエキゾチシズムや気紛れではなく、強い意志の力によって、自らの主体を再構築するためにオセロを愛情の対象とし、妻としての献身を決心する」。
「オセロは夫としても失格だが、その肌の色ゆえに父となる道も閉ざされている。オセロの血の混じったデズデモーナの子どもは、白と黒との混血ではあっても『黒人』としてしか取り扱われず。ヴェニスでのその子の未来は当然暗いはずだ。『愛の悲劇』の体裁を借りるこの劇において、究極的に阻まれているのは、この混血児の出産である。デズデモーナは悲恋の妻たることはできても、混血児の母となることは決してできない」。
本来あってはならなかった男女の性的結びつき、すなわち、オセロとデズデモーナの規範から逸脱した性が、人種差別への反逆、家父長制度への反逆を意味する以上は、『オセロ』という劇は不幸な結末に終わらざるを得ないのだ――というのが、本書の著者の見解なのである。