情熱の本箱
日米開戦の4カ月前に、若手研究生たちから、日本必敗という研究結果が内閣に報告されていた:情熱の本箱(335)

情熱的読書人間・榎戸 誠

昭和16年夏の敗戦(新版)』(猪瀬直樹著、中公文庫)には、思いもかけない意外なことが書かれている。

昭和16年12月8日の日米開戦の4カ月前の8月27日、28日に、内閣直属の総力戦研究所の研究生36名が、日米が戦ったら日本は必ず敗けるという研究結果を、眼前に並ぶ第三次近衛内閣の閣僚たちに向かって報告していたというのだ。この研究生は、各省と民間企業から選抜・招集された、将来、国家を背負って立つべき者と見做された逸材揃いで、その平均年齢は33歳であった。しかも、その報告を、熱心にメモを取りながら聴いていたのが、陸軍大臣の東條英機だったというではないか。総力戦研究所第一期生卒所式の集合写真の中央には、軍服姿の東條が収まっている。

研究生たちの結論は、このようなものであった。「12月中旬、奇襲作戦を敢行して成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしてでも避けねばならない。・・・東條陸相は真剣な面持ちで(午前9時の)始めから(午後6時の)終わりまでメモを取る手を休めなかった。外は驟雨が見舞い、大広間のシャンデリアは鈍く光っていた」。

本書には、もう一つ意外なことが記されている。行き詰まった近衛文麿が内閣を放り出した後、昭和天皇が後継首相に東條を指名したのは、対米開戦を強硬に主張する東條を首相に据えることで、開戦を避けようとしたというのである。

「(木戸孝一内大臣に漏らした)天皇が自らいう『虎穴に入らずんば虎児を得ず』という諺は、この場合『9月6日の決定』の急先鋒の東條に『白紙還元』の十字架を背負わせた首相にしてしまうことだった」。「9月6日の決定」とは、この日の御前会議で、10月下旬を目途に対米英戦の準備を進めるというものである。早急な開戦を迫る軍部と、その決定に異を唱える天皇という構図が見えてくる。

そして、もう一つ、私が抱いている東條という人物のイメージを覆す事実が明かされている。

「『9月6日決定の白紙還元』は天皇の意思表示である。(首相に指名された)東條の頭は混乱していた。整理できない。陸相官邸では佐藤賢了軍務課長らが、宮内省発表を聞きその意外さに耳を疑った。下馬評は東久邇宮の皇族内閣が有力だったからだ。しかし、主戦論の東條が総理大臣に指命されたのはうれしいことにはちがいない。はしゃいで待っていたが、主人はなかなか戻ってこない。・・・東條は(赤松秘書官に)跡切れ跡切れに答えた。『とんでもないことに・・・。組閣の大命を拝したんだ・・・』。東條は陸相に任命されて以来、勅命を大いに尊重した。天皇の命令を遵守するのは軍人のつねだが、東條の場合融通がきかないほど厳格だった。この『忠臣』にとって天皇は絶対だった。木戸はそのことをよく知っていた。『9月6日』の御前会議の決定遂行を近衛に迫ったのも、東條のそういう忠臣ぶりの一面を示すものだ、主戦論の陸軍を代表する東條に、『9月6日決定の白紙還元』を命ずるのは、なるほどひとつのアイデアなのである。・・・天皇にああいわれた以上もはやストレートな主戦論者というわけにはいかなくなっていた。陸軍省スタッフと東條の心境とは、わずか数時間の間に大きく隔たっていた。『今日からは首相という立場で万事処理していかねばならない。もはや、陸軍だけの代表ではないのだ』。東條は軍務局長らにそういうと、彼らのつくった組閣名簿には目をくれず赤松秘書官を伴って別室にこもった。・・・(東條の『変節』を知った)軍部の期待はやがて落胆と憤慨に変わっていく」。

「(東條は秘書官たちに)苦境を漏らしていた。『支那で犠牲になった英霊に申し訳ないが、だからといって日米戦争になればもっと多くの将兵が犠牲になる。だからそれもできないよ』。東條は、とにかく『白紙還元』の線でどう会議を前進させるかということに腐心するしかなかった。統帥部は『急げ』と何度も迫っていた。・・・大激論の末、(即開戦を主張する)参謀本部側の結論は『11月30日までなら(米国との)外交をやってもいい』であった。この直後の東條の粘り方には哀感を禁じえない。ここにあるのは『独裁者』の姿ではない。統帥権のカベはどうしても破れないのだ。『12月1日にならないか。1日でも長く外交をやらせることはできないか』。塚田参謀本部次長はつっぱねた。『絶対にできない。11月30日以上は絶対いかん。いかんッ』。・・・東條は、この時、かつて自分が追いつめた近衛の立場にいた。しかし、律儀な『忠臣』である軍人宰相は、近衛のように内閣を投げ出して総辞職するわけにはいかなかった。11月2日夕刻、東條は杉山参謀総長、永野軍令総長と3人で連絡会議の内容を天皇に報告した。連絡会議の報告をしながら、東條は泣きだした。天皇の『白紙還元』の意向にそえなかったからである。杉山も永野も天皇と東條との間にある空気の密度に驚いた」。

「ルーズベルト大統領もハル国務長官も、もはや時間稼ぎのために日本政府を相手にする気はなかったのである。日本の極秘電文をすべて解読していたアメリカ政府は、日本の参戦を予期していた。ルーズベルトはハルにいった。『日本をあやす時期は終わった。問題はわれわれがあまり大きな危険にさらされずに、しかも日本が先に攻撃を仕掛けてくるようにさせるにはどうしたらいいかということだ』。・・・近衛内閣時代の東條は陸軍大臣として主戦論をぶっていた。その東條が総理大臣に指命されたので開戦は必至、とみる国民も多かった。また、アメリカもそうみていた。天皇と東條との密室の『契約』を知る者は奥の院の一握りの人間たちにすぎない。世の中全体が開戦のうねりのなかにあった。そのうねりをつくった責任者の一人がかつての東條だった。皮肉なことに東條はいま自らつくった激流のなかでそれにはかない抵抗を試みる一本の杭でしかなかった」。

「開戦反対の天皇は、第三次近衛内閣陸相東條英機を総理大臣に任命することで、意思を実現しようとした。しかし、その思惑とは別の方向に事態が進展していた。・・・天皇が自分を頼りにしている、ということは東條にとり無上の至福であり重荷でもあった。ところが、天皇の意思に反して『日米開戦』を決定せざるを得なくなったのである。翌日になっても、東條は未練を隠さない。秘書官らに『戦争になって、陛下はさぞ、ご不満だろうなあ』と呟いていた。しかし、12月8日のハワイ奇襲成功の報に接するころ、東條は再び10月17日以前の自分に戻っていた。緒戦の朗報は、彼の中のすべての拘泥を吹き飛ばしていた。・・・緒戦勝利の美酒に酔いしれながら『神国日本』は東條を先頭に挙国一致で破滅に向かって邁進し始めたのである。だが、この戦争に『日本必敗』の結論が出ていたことを、この時東條は思い出しておくべきだったろう。昭和16年8月27日、28日の両日にわたり首相官邸で――」。

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