情熱の本箱
『源氏物語』を現代語訳で読むなら、林望訳がお薦めだ:情熱の本箱(353)

情熱的読書人間・榎戸 誠

3年余に亘り、順次、刊行されてきた『謹訳 源氏物語』(林望著、祥伝社、全10巻)を読み終えて、3つのことが印象に残った。

第1は、この林望の手になる「謹訳」は、数ある他の現代語訳に比較して、すらすら読めるということ。とかく煩雑になりがちな注が一切なく、現代人の理解を助ける説明が本文に巧みに組み込まれているからである。これまで、『源氏物語』に挑戦しながら途中で挫折してきた人も、この「謹訳」なら最後まで到達できると思う。

第2は、魅力溢れる主人公・光源氏にも頑として靡かなかった女性がいたこと。出自、容姿、才能のいずれも抜きん出ている源氏は、その輝くばかりの魅力を武器に、それこそ手当たり次第といった感じで多くの女性たちと深い関係を結んでいく。上は自分の父である天皇の后(中宮)との密通から、上流貴族の娘や妻は言うまでもなく、果ては頑是ない少女や老女に至るまで際限がない。さらに、下は女君に仕える女房たちにまで手を出している。

紫式部も中宮・彰子に仕える女房であったが、これらの女房の中には、召人(めしうど)といって、女君の体調の悪い時や、男君の気まぐれな遊び心から男君の寝所に呼ばれる女がいる(こうした女たちは、所詮、夜の相手を務めるだけの女と見做され、物の数に入らないため、女君<女主人>が嫉妬することはない)。

このような状況の中で、頑として源氏の求愛を拒絶した女性が2人だけいるのだ。朝顔の君(桃園式部卿の宮の娘、三の宮、朝顔の斎院)と呼ばれる女性と、玉鬘(夕顔と頭中将との間の娘、撫子の姫、藤原の瑠璃君)と呼ばれる女性である。私などは、女性にもてる源氏に嫉妬を感じるというよりも、その飽くなき好色ぶりに嫌悪感を覚えてしまうのだが、それだけに、この2女性の毅然とした態度には快哉を叫びたくなる。

朝顔の君は、源氏の求愛を受けるようにという叔母の説得をきっぱりと拒絶する。「これ(朝顔の君の頑なな態度)には生半可に諭しかかった五の宮(叔母)のほうが恥ずかしくなるような凛然たる様子であったので、それ以上はとてもとても言い勧めることができなくなった。こんなことのあるたびに、前斎院(朝顔の君)はひしひしと孤独感を噛みしめる。<五の宮もあんなことを言い出すし、近侍の女房たちだって、どうやらみな源氏びいきで、もしかしたら源氏に籠絡されているかもしれないし・・・、となると、いつ源氏の言いなりになって自分の閨(ねや)へ手引きなどして来ないものとも限らない・・・>」。前斎院は、なにやら身辺のうそ寒いような思いを味わっている」(第4巻「少女」)。この何という小気味よさ!

第3は、宇治十帖のヒロイン・浮舟が、当代一流の男性、薫(源氏の息子。しかし本当の父親は源氏ではない)と匂宮(源氏の孫)から求愛されて、両者の間で揺れ動くこと。浮舟が自ら望んだのではなく、結果的に2人の男性と深い関係を持ってしまうのだが、男性ではなく、女性が選択に思い惑うというところに、『源氏物語』と現代の間に横たわっている千年という歳月が消え去ってしまったかのような錯覚に襲われた。

「女(浮舟)は、<・・・(匂宮と)あんなことがあったのに、なんとして平気で大将の君(薫)にも逢うことができようか>と、あたかも空にも目があって自分の行動を見張っているかのような、恥ずかしくも恐ろしい思いに押し拉がれる。しかも、あんなふうに強引に自分を組み敷いた宮(匂宮)の姿が、ふっと心に思い出されて、またこの人(薫)ともこれから一夜を共にすることになるのかと思い遣るほどに、なんとしても情無く辛い思いがするのであった。・・・<もし、この君(薫)にとってどんなに心外だろうと思われるような私の不心得・・・宮とあんな関係になってしまったことを、万一にも、噂に聞かれたなら、その時はそれこそ大変な一大事になるであろう・・・あの、理解を超えて、それこそ夢中になって恋しがっておられる宮のことも、でも、私はやっぱり愛しく思ってしまう。そんなのは、絶対にあってはいけないような軽薄な心がけに違いない。それでもし、この大将の君に嫌な女だと思われて、そのまま捨てられ忘れられたとしたら、その心細さは・・・>とて、かねてこの山里に放って置かれて、心細い思いがつくづく身に沁みているだけに、姫(浮舟)の心は千々に乱れているのだが、・・・」(第10巻「浮舟」)。この現代性!

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