情熱の本箱
遂に、下山総裁謀殺事件の真実に辿り着いた、緊迫感漲るドキュメント:情熱の本箱(382)

  

情熱的読書人間・榎戸 誠

1949(昭和24)年7月6日午前0時20分頃、東京郊外の常磐線が走る五反野という所で列車に轢かれた中年男性の死体は、1時間半後には、国有鉄道公社初代総裁の下山定則(47歳)と判明した。この下山事件に関する本はいろいろ読んできたが、説得力において、『謀殺 下山事件』(矢田喜美雄著、祥伝社文庫)に止めを刺すと考える。『下山国鉄総裁謀殺論』を著した、泉下の松本清張も私の見解に賛成してくれることだろう。

本書は、事件当時、朝日新聞の社会部記者として取材に奔走し、事件の鑑定作業に協力もした著者が、その後も長期に亘り、粘り強く事件の真実を追った記録だが、驚くべき実態が抉り出されている。

著者の調査過程の記述は詳細かつ大部なので割愛させてもらうとして、著者が辿り着いた結論は、こうだ。

「(得られた10の情報のうち、信頼できる)4つの情報を事件の進行状態にてらし合わせると、最初は三越に近いホテルから誘拐者たちが三越に向かったというもの(宮下英二郎氏の情報)。つぎは誘拐者たちははやくも総裁を三越から連れだして自動車に乗せて三宅坂から国会議事堂前を通って神宮外苑へ(鎗水徹氏の情報)。3つめは三越地下街を出て9時間後、もう夜も9時をすぎているころ、事件現場に近い荒川放水路ぞいの葛飾区小菅町の工場街にはいった自動車をみたという人のもの(石塚義一さんの情報)。いちばんおしまいは荒川土手下を自動車で運んできた死体を受け取って、これをガード下まで運んだという4人組の話だった(Sさんの情報)。この4つの情報を組み合わせると、どうやら三越で消えた総裁の行方が暗示できるように考えられた」。

この4つの情報に基づき、誘拐→監禁→暴行→殺害→五反野現場への死体運搬――という犯行者側の筋書きどおりに実行された各場面が具体的に再現されている。

下山事件を考えるとき、一番重要なのは、この事件の筋書きを書いたのは誰か、そして、どういう狙いが込められていたのかを突き止めることである。

「下山総裁を誘拐、殺害する計画はいつ決まったものか、それはわからないが、誘拐と殺害のための実動グループの編成は、事件から20日ほど前から始められている事実があり、計画は1年も前から準備されたといった長期的なものではなかったと思う。2百万人の首切り、歴史にかつてなかった狂気の社会不安が目の前に迫っていた。こうようなときこそ謀略は成果をあげる可能性が強いとみたのだろう。計算された方法で総裁をおびきよせる。何かが起こりそうだ、みんながそう思っているとき殺人請負業者たちを動員したのだと思う。総裁を殺した人たちは総裁に対するうらみなどカケラほどもなかった人たちばかりだったろう」。

「さて、この犯行をやったグループの人員構成だが、まず数えられるのは、事件の朝10時ころ銀座4丁目の地下鉄口喫茶『メトロ』に集まった8人である。この連中はそれぞれ任務をうけて出ていった。銀座にこなかったNが五反野現場に夜になって現われたので、これで総裁殺しの請負グループは9人ということになろう。9人の仕事の分担を考えると、ナッシュの運転手1人、五反野ガード下へ死体を運搬したリーダーの老人が1人、リーダーの命令でガード下まで総裁を運んだ運搬者3人、これで五反野にきた人間は5人となる。メトロに集まった8人にNを入れた9人のうち5人が五反野にきていた。凶行グループには総裁を三越から連れだした誘拐班の日本組と、これを監視していた二世CIC(対敵諜報部隊)の3人組もはいる。このうち日本人組の誘拐班については警視庁の非公開資料に出てくる3人組と、鎗水情報の4人組とがあって、どちらがほうとうの誘拐者かと首をかしげるのだが、考えてみると誘拐に2つの組を出すこともあるまい。これは何かのまちがいではないかと考えたが、これを証明するかのように3人組のなかに50歳すぎの年寄りがいた。また、一方の鎗水情報の4人組のなかにもリーダーだけは年寄りだったとH・Oのノートに書いてあった。問題は3人組と4人組という人数のことをどう考えるべきかだが、4人組の1人は車の運転手で室町の路上の誘拐車のなかに坐っていたと考えれば何も問題はなくなった。やっぱり三越からの誘拐者は4人組でよかったのである。このように犯行に登場した人数を数えてみると、総数は16人となった。ただし、このなかには事件の日に末広旅館に現われ、五反野の常磐線レール上を長時間にわたってうろついた(自殺に見せかけるための)ニセ総裁ははいっていないので、これを入れると17人という大勢になる。謀略にはこんな大人数は禁物だと思われるのだが、現実にそういった頭かずが動いていたのだからいたしかたないだろう」。

「総裁殺害については実にひどいやりかたをしていた。裸にしたうえ、飲みものも食べものもいっさい与えず、夜になってからは動脈に太い針を差し込んで血管から4リットル近い血を抜き取って殺したと考えられる」。

「絶大な権力と網の目のように張りめぐらした諜報組織を持つCIC、これを指揮するG2(連合国軍最高司令官総司令部参謀2部)。占領行政も5年のキャリアをもつ第8軍情報部ならやれないことは何もないといわれたものだ。・・・(全国都道府県に置かれた)単位CICは、さらに土地の事情に明るい日本人協力者を雇ったり、二世軍人を配置したので、いわば完璧な『情報のお城』となっていたわけだ。さてこのCICに疑いを深くするわけはいくつかあるが、その代表的なものに下山総裁を三越から誘拐したとき使われた自動車が第8軍情報部勤務のスタントンという人の持ち車で、アメリカ製のナッシュ47型という大型乗用車だったという情報だ。・・・つぎに問題になるのは、この誘拐車や車の持ち主が第8軍情報部勤務者であるということを日本人の記者に教えたのが、事件後も日本に駐留して日本橋のG2事務所にいたCICのフジイという男だったという点である。・・・私のフジイに対する判断は、彼は事件の真相を知っていた人物というより、むしろ事件を計画した側に立った人物だったのではないかということである。それでなくては、誘拐車の国会議事堂前通過という事実について、事件の翌日にははやくも口出ししたり、第八軍情報部のスタントンの話やナッシュのことなど鎗水氏に話すことはできなかったと思う。一方ではこの事件を追う私にとって、このフジイなる人物は実に重要なニュースソースであった。もしフジイの登場がなかったら、下山事件の計画者の正体を見破ることもできなかったかもしれないのである。隠そうとすればかえって現われるもので、フジイの登場のおかげで事件はCICが深くからんでいることを教えてくれたのである。下山事件は占領軍CICが日本人を使って工作したものであることは明らかである」。

「占領軍の謀略は成功したといっていいだろう。2百万人の首切りは下山総裁の怪死で予定どおりスラスラと運んだ。朝鮮戦争前後の日本人社会の『赤狩り』も思いどおりに進められた。アメリカが国家として情報活動に手をつけたのは、第二次大戦中スイスにいたアレン・ダレスによる情報収集組織が最初だったが、戦争で上達した謀略の手が占領下の日本で大成功を収めたのは下山総裁暗殺事件であった」。

本書によって、優れたドキュメントは、凡百のフィクションの遠く及ばぬ緊迫感を蔵していることを再認識させられた。

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