二十にして心朽ちたり 『李賀 垂翅の客』草森紳一 を読む。
李賀と聞いて、胸が詰まるのは、自分の身に引きつけて彼の無念を思うからだ。つまり「長安に男児あり 二十にして心朽ちたり」と歌ったからだ。69年の学生運動が衰退したとき、この詩が身にしみたからだ。「心朽ちたり」・・・
しかし、実は李賀の詳細については知らなかった。その詳細な研究書が本書であるが、これも又未完の本なのである。いろいろ知るところがあった。まず私は李賀が二十の時に科挙に落ちたのだと思っていた。全く違っていた。科挙を受けることを拒否されたのである。その奇怪な理由は「諱に触れる」と言うことであった。李賀の父の名は晋(しん)粛。晋粛の子である李賀は進(しん)士になりえない。晋と進は、同音であるから、諱に触れる、辞退すべきだというのである。それを伝え聞いた李賀の推薦者韓愈は「諱弁」を書いて抗議した。しかし、この事件は覆らなかった。李賀は未来永劫、科挙を受験することが閉ざされたのである。もちろんこの裏にあったのは政争である。李賀を推薦した韓愈に敵対する者が放った矢である。李賀は皇族鄭の孝王李亮の末孫であったが、既に家は没落し、貧に苦しんでおり、李賀は名誉とともに家の経済的な立て直しを託されていたのである。もちろん、李賀は早熟の天才で、それゆえ中央政界の一方の大物韓愈に目を掛けられていた。しかし現実はその事が李賀の生涯を決定づけてしまったのだ。しかし、李賀は二十で消え去ったわけではなく、その後、奉礼郎という典礼を掌る下級官吏について、3年を長安で過ごしたり、それを辞して、故郷昌谷へ帰ったり、そこを飛び出して、友人の張徹をたより潞州に3年滞在したりしている。この間、激しい怒りと、葛藤、恨み、悲しみ、あらゆる辛酸をなめながら、詩を書き続けたのである。李賀は鬼才と言われたがその事についてこう書かれている。「李賀は鬼才と呼ばれた。この言葉は、かれの為にできた。他の文学者をさすことは、中国においては、ない。鬼は日本語のオニとはちがい、死者、すなわち亡霊を意味する。鬼才とは、幽霊や妖怪など超自然の事物によって、鬼気せまる神秘な雰囲気をかもしだす異常感覚者をさす。鬼才の語は、かれの死後200年を経て、宋代の随筆集『南部新書』に、「李白を天才絶(最高の天才)となす、白居易を人才絶となす。李賀を鬼才絶となす。」とはじめて記される」。今でも使われる鬼才とは李賀に始まった語だったのである。
漢詩の才能がない者にとって、李賀の詩を云々する資格はないが、本書で解説される李賀の詩が、必ず李賀の恨みの念が裏にあると言う評価には何とも言えない悲しさを感じる。自分の運命に納得せず、あがいて、慟哭しながら歌った詩は、確実に李賀の心象であるとは思う。しかし、眼前に見るものを色鮮やかに切り取り、動くように描く、李賀の心がそうであったとしても、李賀にはそう見えたと思いたい。
李賀の酷薄な人生に僅かに色を添えるのは、奴隷として母が買い与えたという少年巴童の存在である。巴童は郷里に帰った李賀が鬱屈した心をかかえて驢馬に乗って山野をさまようのにつき従った。主人の絶望を十分に感じていて、李賀が詩を書きつけるための硯と紙を持ち、李賀が詩を書けば、歌ってくれと必ず乞い、李賀が書き散らした詩をあつめてもち帰ったのだ。それらの詩は百篇にもなり、李賀の死後、それを郗士美に届け、李賀の詩(僅かに300篇ほど)の中核となった。
李賀の周囲には優秀な詩人、文人、政治家が多数存在する。しかし文人政治家となることを断たれた李賀がそれらの友情を率直に受け容れられなかったであろうことは想像できる。それゆえ、無私の心を示した巴童の存在にわずかに救われるのである。
李賀は27才にして、死した。
魔女:加藤恵子