学魔の本函
『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』を読む!

博士と狂人

『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』サイモン・ウィンチェスター


OED編纂の魔的な事実。

学魔高山が必ず言う口癖「OEDを買え、調べろ」。そのOEDの編纂に関わる摩訶不思議な真実の物語である。私も、常々、あの膨大な言葉の来歴をどうやって調べたのであろうかとは思っていた。何せ、コンピュータがない時代である。編纂者がすべてやったとも思えなかった。やっぱりあった裏話である。

ご存じのようにOEDは、その編纂の方針において、他の多くの辞典と異なっている。印刷物やその他の記録から英語の「用例」を徹底的に集め、その用例を引いて、英語のあらゆる語彙の意味がどのように使用されているかを示しているのだ。

引用例によって精確に示すことができるのは、ある語が何世紀ものあいだにどのように使われ、意味のニュアンスや綴り方や発音の微妙な変化がどのようにして起きたかということであり、さらにこれが最も重要だと思われるのが、それぞれの言葉がどのように、そしてもっと正確に言えば、そもそも「いつ」その言語に忍び込んだかを明らかにすること。つまり、その言葉の意味の初出を実際に使用された文献(詩、小説、戯曲、その他)に探り出し、意味の変遷も辿るように編纂されているわけで、そのデータを集めると言う作業が大きな意味を持っていた。この基本作業とその整理・編纂に関わった2名の数奇な関わりが、この書籍の主旋律なのである。

OEDは確かに計画段階で関わったのは、ヴィクトリア時代のインテリであり、イギリス言語協会が支配的な力を持っていた。ヘンリー・リドル(その娘がアリスであり、ルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』を書くことになった)、東洋言語学者でサンスクリット学者のマックス・ミューラー、歴史学者ウイリアム・スタッブズ、古典学者エドヴィン・パーマー、ジェームズ・シューエルなどであった。しかし、実際の作業は、さして高等教育も受けてはいなかった自意識過剰で雑学的にアマチュア言語学者であったジェームズ・マレーと20年にもわたって、正体不明のウイリアム・マイナーという人物が深くかかわったのである。なぜこんなことが可能であったかと云うことは、編纂にあたって、マレーは情報を広く一般から募ったのである。篤志文献閲読者、つまりボランタリーで、言葉を集めた。そのコンセプトは原文から忠実に探すことであるから、学者でなくても出来たわけである。これに応じてきたのがマイナーであった。これが余りにも正確、広大な知識であるために、マレーは疑うこともなく、金持ちの外科医と考えていた。

1897年10月12日、大辞典祝賀晩餐会に欠席したマイナーを不審に思い、マイナーを訪ねたマレーは初めて彼の正体を知ることになるのである。彼の住所は精神病院であり、彼は殺人を犯したが精神病の為にブロードムア刑事精神病院に収監されていたコネチカット州ニューヘイヴァン出身のアメリカ合衆国陸軍将校であることが判明したのである。

しかし、この精神病院からマイナーは仕事を続けていた。ただ1915年7月にワシントンDCの「サンデー・スター」に「アメリカ人の殺人犯がオックスフォード英語辞典の編纂に協力」「英語辞典の謎に満ちた貢献者は、ブロードムア刑事犯精神病院に幽閉されている資産家のアメリカ人外科医であることがわかった。彼は精神が錯乱している状態で殺人を犯したのである。辞典の編集主幹であるサー・ジェームズ・マレーは、仲間の学者の家を訪問するつもりで出かけたが、ついたところは病院であり、そのアメリカ人は当時、北軍の軍医だった。友人によれば、彼は裕福で、現在はアメリカにすんでいるという」というセンセーショナルな記事が出たことがあった。

本書は、このマイナーの殺人と精神病発病の契機をアメリカ南北戦争において北軍の将校であったマイナーが脱走兵の処刑をさせられたことが原因として、その詳細な過程を調べ上げていて、これはこれで興味深いものがある。

このように、かの世界に誇るOEDはボランタリーの篤志文献閲読者によって、言葉が蒐集され、かつその大部分をアメリカ人の殺人犯の精神病者が担って出来上がったと言う事実は摩訶不思議としか言いようがない。

OEDはエリート主義者と男性とイギリス人とヴィクトリア女王時代の傾向を反映しているという批判や、イギリス帝国主義の精神での言語構成でありアメリカやイギリス植民地の言語が収録されていないと言う批判がされている。だが、当時の多くの文書と同様に、OEDの反映する一連の傾向が現代の傾向と完全に調和しないことをみとめたとしても、この辞典に迫る偉業を成しとげた辞典は他に存在しないし、これからも生まれないだろとおもわれる。OEDは、好奇心の強い熱心な多数の男女が広汎な知識と興味をもってつくりあげた堂々たる作品だったのである。

大事業の裏には必ず魔的な業がある、そんなことを考えさせられた。そしてOEDが欲しくなるのだ。

魔女:加藤恵子