『流星ひとつ』沢木耕太郎 を読む。
この本を云々すべきなのか悩むところだ。藤圭子の昔のインタビュー、ノンフィクションなのである。藤圭子が自殺をしたニュースは驚くと共にやりきれない痛ましさを覚えた。さらに、娘である宇多田ヒカルの出したコメントには更に驚いた。つまり娘である自分も母親には悩まされた。藤圭子は精神を病んでいたということの公表である。引退後の藤圭子の時々目にしたニュースには確かに何か奇妙な感じを覚えていた。何度も宇多田氏と離婚、結婚を繰り返したり、大金を持って空港で逮捕されたりしたと言うニュースである。死後、藤圭子が自分のことを書いた誰かの原稿を持ち歩いていたというニュースを読んだ時、私は全く何の根拠もなく、それを書いたのは沢木耕太郎ではないのかと思っていて、それが的中したことに実は本当に驚いたのである。
その藤圭子が大切に持ち歩いていた原稿こそ、この『流星ひとつ』であることが明かされている。その経緯は、沢木がノンフィクションの作法に試行錯誤をしていた中で書かれたものであることと、藤圭子が引退を発表した時のもので、沢木は藤圭子が引退を翻して復帰する時に、あるいはこのインタビューが邪魔になるかもしれないということを考え刊行しなかったが、生原稿を藤圭子に渡したということが明かされている。
本のスタイルも確かに不思議で、全てが会話で構成されていて、沢木が問い、藤圭子が答えるという形式で交互に語るという型が一貫している。そこには沢木の印象も、心の動きもすべて会話として表現されている。藤圭子がなぜ引退を決意したのか。それは実は声帯の手術をして後、声が以前と変わってしまい、藤圭子を失ったと自覚したことであることが語られている。その部分がハイライトなのであるが、会話する二人を読者である私が横から聞いている様な不思議な感じがするのである。そして、最大の感覚は藤圭子が沢木こそ自分を本当に分かってくれていると全身で寄りかかって行くような流れが見えるのである。藤圭子は前川清との離婚後、複数の男との関係を述べているが、このインタビューで沢木を恋しているのではないかという印象がぬぐえない。沢木はそれに気が付いていて、これを刊行しなかったのではなかろうか?
宇多田ヒカルのコメントにこだわるが、自分の母親を彼女と書いている。迷惑したと書いている。多分藤圭子は確実に精神を病んでいただろう。なぜ家族である宇多田氏やヒカルはそれがわかっていながら放置したのか?全力で治療を受けさせなかったのか?本に書かれた28歳の藤圭子はいくぶん変わり者ではあるがすさまじく潔癖で、強い精神の持主であることがよくわかる。だからこそ精神に異常をきたしたのだろう。なぜ純真だからこそ病んでしまった一人の家族を三人称で呼び、他人事にしてしまったのか?責めるつもりはないが、ひどく悔いが残るのだ。
沢木の本が出たことをどう評価すべきか良く分からない。藤圭子に心が動く世代にとって、藤圭子はたしかに書かれている様な存在だった。美しかった。その後は無かったことにしたいという思いもある。幸せに生きてほしかった。
魔女:加藤恵子