魔女の本領
本年もっとも刺戟的かつ優れた書籍…

カリブ

『カリブ-世界論: 植民地主義に抗う複数の場所と歴史』中村隆之


『カリブー世界論 植民地主義に抗う複数の場所と歴史』中村隆之をよむ。

もしかしたら、本年もっとも刺戟的かつ優れた書籍になるのではなかろうか。活躍が目立つようになってきた70年代以後の生まれの若手研究者による本格的デビュー評論である。

カリブ海とはヨーロッパ各国の草刈り場であった。そのカリブ海で、独立を果たしたのはハイチ、キューバが目立つが、フランス領カリブ海世界というものに対する関心は、実は世界的になることはなかった。しかし、ここにきて注目の度合いが高まるのだが、私自身はといえば、せいぜいマルティニック、あるいはクレオールという包括的な概念であったり、せいぜい、グリッサン、セゼール、そして『カリブ海偽典』の作者シャモワゾー位が浮かぶだけであった。

中村は2009年1月20日から書き出している。この日はバラク・オバマがアメリカ合衆国第44代大統領に就任日である。その前庭であるカリブ海フランス領で尖鋭的なゼネストが予告されていた日であった。このゼネストの実際と世界的な意義に向けて、中村は歴史的な経緯を綿密に紡ぎあげて行くのである。大きな問題はいわゆるマルティニック、グアドループなどフランス領が独立に向かうのではなく(今後は分からないが)、独自の世界を構築し、フランス本国の海外県としていわばフランス本国の社会変革の起爆剤となるところまでいたった壮大な歴史なのである。中村は始めクレオール文学に興味を持った所から入ったようなのであるが、クレオール文学者たちが、一様に政治と深く結びついていたことから、マルティニックのフランスへの姿勢の変遷を辿っている。そこから見えてきたことは、奴隷制の廃止も植民地化も海外県化もフランス本土の資本の要請から選びとられているということではあるが、その海外県の地位においてカリブ海フランス領の民衆が自己のアイデンティティをどう捉えて行ったかの変遷を辿っているのである。そこでは、文学者の政治参加が大きな意義を持っていた。セゼール、フランツ・ファノン、グリッサン、シャモワゾーらがその典型である。もちろん時代的制約をかかえていたから、全てがそのまま革命的であったわけではない。セゼールは悩みながらフランス海外県の中での権利拡充を目指した。これに対してアフリカの出自に重点を置いたファノンのアルジェリア問題への献身的な身の処し方、その著作がマルティニック文化人にネグリチュードの目覚めを与え(セゼールにも与えている)、更にはグリッサンはカリブ海の人間の複合的な存在から、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の結節点として、異なる文化の同化を視点とした。それを更に進めたのが後にくるシャモワゾーらの「クレオール性」という認識である。これは『クレオール礼賛』というマニフェストが高度な思想性を提示した。

◎「クレオール性」とはカリブ、ヨーロッパ。アフリカ、アジア、レヴァントなど「歴史」の軛が同じ土地に集めた諸々の文化要素の相互浸透的な集合体である。三世紀にわたって、こうした現象の影響下にあった島々と大陸の一部は、新しい人間性が打ちだされる真の鍛冶場であった。そこでは、言語も、民族も、宗教も、習慣も、世界中から集まってきた人々の生き方も、突如として脱領土化され、新たな生を模索せざるを得ないような環境に移植されたのだ。我々のクレオール性は、したがって、このとてつもない混淆からうまれたのである。(『クレオール礼賛』)。

さてクレオールという語に馴染みはあるがその内実を良く知らなかった。まず奴隷制化にクレオールは話し言葉として伝播した。フランスの植民地化以降は公用語はフランス語であり、クレオール語はほぼ衰退していた。1970年代になり改めてクレオール語を文字化して伝える試みがはじまり、いわば新たに作りだされたと言うのである。ここでこのクレオール語をめぐる深い問題が現出する。クレオール語が現地の言葉として定着するにはクレオール語の作品が書かれなければならない。それゆえクレオール語原理主義的な文学運動が起こり、クレオール語だけで表現する試みがなされた。これにたいして、シャモワゾーなどは、フランス語でクレオールの世界を描写するのであるが、純粋フランス語ではその世界は書ききれない。そのためにクレオール語がフランス語に浸透したような形での文学作品が書かれることになる。それがフランス本国を打つことになる。カリブ海文学の開花である。

その他に、クレオールのアイデンティティ確立に寄与したものに音楽があると言うことであるが、これについては私に全くその素養がないために良く分からなかった。ただ以前石橋純の『太鼓歌に耳をかせ』というカリブ海世界での太鼓と歌の復権が民衆の自治精神を呼び起こしているという本を読んだことがあり、これに重なると思った。

最終章において中村は再びあのゼネストの意義について記述している。それが目指した者は賃金の引き上げであると共に物価の引き下げであり、政治という抽象物ではなく生活を問うゼネストが全島で闘われて、40万人の人口のうち4万人が街頭に出たと言う。その宣言は「高度必需品宣言」と言われるもので、それは、生きるために欠かせない「最低必需品」(「散文的なるもの」)に対して、物質として具現化しない、抽象的な、目に見えない、精神の態度に属する要求である。しかし、その精神の態度をつうじて、「最低必需品」との関係がかわってしまうような要求である。

フランス領カリブにおける「高度必需」とは、端的には、輸入に頼るエネルギーと食生活を考えなおすということだ。周縁から西欧、いや世界を打つアピールになっている。ゼネストは44日に及び成功するが、全てが勝ち取られてはいないそうである。

中村は書いている。
「商品世界の拡張を求めてゆく「現代資本主義」のなかでは消費者が生産者となり、生産者が消費者となる。その意味で「われわれは誰もがグローバル化した不定形なシステムの犠牲者」である。このような自覚から出発して、労働と生活を、金銭に従属する矮小化された勝ちから解放することが、「高度必需」の求めることであり、ゼネストの秘める世界規模の可能性だった」と。

これをユートピアだとの認識も示している。
「ユートピアは地球上に、語の原義からして存在しない。しかし、ユートピアを想像すること、つまり現状の社会を批判し、その批判精神から新しい社会のあり方をゆめみることは、必要だ。今日の私たちは、進歩史観にのっとって社会の改良や全身を確信できるほど、純朴ではいられない。ユートピアは、そのような進歩史観の先に待つ、実現されるべき未来のなかに求められるのではない。ユートピアの可能性は、グリッサンの考えるようなカオスの世界観のなかで、予期せぬかたちで実現する「出来事」の内に宿るように思える。「出来事」である以上、それは持続しない。したがった、そこから体性が築かれることもない。ユートピアの可能性は、一瞬の力の凝集として現れる「出来事」のそれだ。その「マグマ」が熱しているほど、「出来事」は消えたあとも現実世界におおきな痕跡を残す」。

そうなのだと思う、何もしなければユートピアさえ身に引きつけることはできないのである。若い研究者の青臭い議論だとは言うべきではない。つねに戦いの中にユートピアは現出する。その幾つかが実現すると信じて我々は生きるべきなのではないだろうか。

魔女:加藤恵子