魔女の本領
子規の凝縮された生に…

ノボさん

 

『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』


夭折した子規の凝縮された生にどうしても心が振り回されてしまう。

『ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石』伊集院 静 を読む。

伊集院の作品を読むと、何故かいつもその作品に流れている静謐な悲しみみたいのを感じてしまう。それは、もちろん夏目雅子の若く、悲しい死を知っているからなのであるが、伊集院の作品に何故か死の影が見えてしまうのは、こちらの思い込みなのかもしれない。しかし、この作品の題材が正岡子規であることは、短い生、35歳での死を私たちは善くよく知っているから、死から逆算された人生のあれこれが、とても輝いて、美しく見えてしまうのである。正岡子規と夏目漱石と言えば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の重要な脇役であるから、大筋のことは今更の感もあるが、やはり明治という時代に、現代に至るまでの文学の道を大胆に切り開き、この二人なくしては日本文学は語り得ないという点で、何度でも描かれるのであろう。しかし司馬遼太郎が描いた青春群像が国家というものの形成が前面に立った作品であったこととは大きく異なって、ここに描かれた正岡子規と夏目漱石は互いを尊敬し合い、影響し合い、思いやり、片方は俳句、短歌というものに新しい視点を持ち込んで文学としての道をつけ、他方は小説というものの近代的意味での始祖となった。

この作品はフィクションではあるが、大枠において、史実をはずしてはいない。あり得たである会話がとてもよく二人の性格の差を描きだしている。松山における子規は幼くして四書五経を学び、謡を習い、美しい字を書いたようである。故郷の期待を担って東京へ出て、快活な青春をスタートする。そして有名な野球に打ち込むのであるが、周りの若者の初めて野球に接したもののドタバタぶりがとても笑える。しかし、野球を誰が持ち込んだかについては知らなかった。それは元幕臣の平岡熙(ひろし)で、明治4年から9年までアメリカで鉄道技術を学んで帰国した人物だそうである。驚くべきことは、直ちに幾つもの野球クラブが出来て、徳川家が作った「ヘラクレス倶楽部」とか、社会人・学生の混合の「白金倶楽部」「溜池倶楽部」とか農学校、大学にチームが出来たらしい。野原で歓声をあげて走り回る明治の若者を思うとつい笑えてしまう。この野球に打ち込んでいた正岡子規の晴れやかな数年があることに、私は救われる思いがする。

子規は初めから俳句に打ち込んだわけではなく、「七草集」として取り組んだのは、漢詩、漢文、短歌、俳句、謡曲、浄瑠璃、小説を総合的に書いていたようである。これを出版しようとして果たせなかった。そこから推察して、子規は最終的に小説を書くことを志向して、果たせなかったのではないかと見ている。その小説を完成させたのが、夏目漱石という図式である。そのような関連性はあるにしても、正岡子規はいわゆる「ひとたらし」のようである。彼の周囲にはいつも誰かがしたって寄り集まって来る。人が人をしたうということは、したわれる人物が、慕って来る個々の人々の良い所を見てくれる、その包容力が慕わしいのだ。自分を高みにおいて他人を批判し、強制的に従わせるようでは、このような関係は成り立たない。その点、子規の性格の並はずれた豊かさが実に美しい。その中から俳句では高浜虚子(彼は実際は子規とはつかず離れずであったようだ。それは虚子の放蕩を子規が嫌ったというように書かれている)、河東碧梧桐を初め、子規庵に詰めかけた人物は多彩で、森鴎外、長塚節、寺田虎彦など有名な人物が登場する。

子規と夏目漱石は落語好き、寄席好きとして知り合うことになるのだが、夏目漱石は天才の誉れが高かったが、人物としては人を寄せ付けないところがあり、両者の性格は正反対でありながら、互いの本質を認め合って、その関係は子規の死まで続く。子規の死の時、漱石はロンドン留学中であったが、知らせに接して、

 筒袖や秋の柩にしたがわず
 手向くべき線香もなくて暮の秋
 きりぎりすの昔を忍びかえるべし

と句をつくっている。帰国後漱石が小説『吾輩は猫である』を発表したのは、子規が苦心惨澹して発刊した「ホトトギス」である。

子規の後半性の病苦については「墨汁一滴」「病牀六尺」などで知られるが、私がいつも心をゆさぶられるのは、子規の病苦を支えたのは母親と妹の律であったと言うことである。特に妹律は二度の結婚に敗れて後、全てを兄のために尽くしている。この二人の女性の姿を思う時、深い感慨を覚える。現代において、女性が誰かの犠牲になると言うことは、意味を成さないように思える。しかし、時にはよんどころなく、犠牲にならざるを得ない時、涙も見せず、混乱することもなく、自分を律して行くことは、個としては尊敬すべき存在に思える。子規の物語に常に、この母と律の犠牲が書き込まれることで、二人は確実に生を得ることが出来る。子規よ「よかったねー」と言ってあげられる。そしてこれも有名なエピソードで終わるのである。子規が死去した時、母八重は子規の両型肩を抱くようにして言った。「さあ、もういっぺん痛いというておみ」と。

子規は病臥したまま根岸の家の庭を全宇宙へと広げるように写生し、わずか三五歳で没した。

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合わず

魔女:加藤恵子