情熱の本箱
電子書籍は「文明」、本は「文化」だという考え方:情熱の本箱(65)

本の底力

 

電子書籍は「文明」、本は「文化」だという考え方


情熱的読書人間・榎戸 誠

本格的な電子書籍時代を迎え、今後、紙の本はどうなるのか、電子書籍全盛の世となるのか――これらに関し、いろいろな議論が飛び交っている。この問題にどういう答えを出しているのか気になって、『本の底力――ネット・ウェブ時代に本を読む』(高橋文夫著、新曜社)を手に取った。

電子書籍と本との相違点は何だろう。「スマホや電子書籍用端末が広がるにつれて、『本』の読み方が変わってきたことも懸念材料だ。・・・本の読み方とネットへの接し方の間には、紙に印刷された冊子と電子端末上にデジタル処理され表示された画像という見かけ上の相違だけではなしに、『集中』と『拡散』、『思索』と『感覚』、『深化』と『浅薄』という大きな違いがあるのだ。インターネットの普及に伴い、参照するのにハイパーテキスト、動画、音声などをオンラインで手軽に利用できるようになり、手間暇かけず、情報や知識を活用できるようになった恩恵は大きい。が、その見返りに読書によって獲得できていた『集中』『思索』『深化』など、失いつつあるものも小さくない」。

「iPadで象徴されるデジタルメディアは『文明』であり、本や雑誌・新聞などの活字メディアは『文化』といえるのではないか、そして『iPad』と『本』の違いの多くは『文明』と『文化』の差異に根差すのではないか――と思えるからだ」。文明(Civilization)と文化(Culture)の差異については、司馬遼太郎の説明が参考になる。「文明は『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。・・・不合理さこそ文化の発光物質なのである。・・・人間は合理的な生命組織の総合でありながら、しばしば不合理に生きることを好む。むしろ文化という不合理なものにくるまることによって精神のやすらぎをえている」。iPadやキンドル、スマホなどを「文明」、本や雑誌、新聞などを「文化」に譬えると、両者の本質の違いを理解し易くなる。

電子書籍時代の本のあり方とは?「『文明』がもたらす秩序や効率、快適さなどを享受しながら、欠点ともなり得る汎用性、画一的、定型化、千篇一律、のっぺらぼうなところなどを、『文化』がもちまえの独自性や個別性を活かし、どう進めていけばいいのか――それが問われるところだ」。

本はどうなっていくのだろうか。「評論家・武田徹は『本は近い将来、ただ使用するだけという位置づけの電子書籍と、所有することが喜びであるような活字書籍に二分されるのではないか』と展望する」。

「この武骨さ、不器用さこそ、本のひとつの本領であり、底力である。『文明』としての電子メディアの汎用性や画一性とは異なる『文化』としての本のもともとの特質だ。むしろ電子メディアが浸透すればするほど、それとは異なる別のメディアとして、本の持ち味があらためていっそう認識されることになるだろう」。

電子書籍一辺倒の時代がくるのか?「米国ではアマゾンの専用端末キンドルが尖兵となり、爆発的に電子書籍が普及していった。だが2013年ごろには伸びは前年に比べて横ばいとなり、安定成長期に入ったとみられる。電子書籍のシェア(占有率)は、紙の本を含めた市場全体の2〜3割程度にとどまりそうだ。本が電子書籍に置き換えられ、代替されるというよりは、電子書籍が本を補い、補完する役割を果たすという見通しが強い」。この著者の予測には、著者が使用しているキンドルに対する不満が影響しているのかもしれない。「キンドル(ペーパーホワイト3G)を使っていてしばしば戸惑うのは、自分がいま読み進めているのは全体のどのあたりなのか、という見当がすぐにはつけにくいことだ。もちろんページの片隅にはただいま何%という表示が小さく出ているものの、本を持って読んでいるときのように手触りで『もう半分まできたか』、『あとわずかで終わりを迎える』といった勘が働かない。いってみれば、キンドルの世界で軽い失見当識に陥ることがよくある」。

著者が、本の底力を3つ挙げている。「1つめは、形や重みがあり一定の秩序のもとで自己完結している『本』という存在それ自体が、データや情報が増大、拡散するデジタル時代、ウェブ時代にあっては一種のアンカー(錨)としてとりわけ意味のある存在であること。2つめは、本を手にとって読むことが『脳』の働きを活発にし、手の『皮膚』感覚にもよい刺激を与える、そしてそのようにして読書で得られた脳の充実感や皮膚の快感という印象は、本人の精神や身体にいつまでも快い記憶として残り続けること。3つめは、本に没頭し本と一体になる読書の行為というのは、あわただしいデジタル化の流れのなかで、自分をもう一度見つめ直し自己をとらえ直すのに有効な手段であり、誰もが手軽に取り組める黙想や瞑想方法でもあること、――だ」。全く、同感である。

「読書という黙想法は、コモディティ化され均質化されたiPadやスマホの『文明』の世界からしばし離脱し、SNS疲れのソーシャルデトックスを実現したり『見当識』を回復させたりするのに、またとない良薬となる」。

ただ読むだけならば、キンドルなどの電子書籍リーダーでもいいのかもしれないが、書評を書くことを考えると、やはり、本ということになる。最近のキンドルなどでは、本文に印をつけたりコメントを書き込んだりする機能も備わっているそうだが、多くの付箋で針鼠のようになっている本を見る喜びを、今後も味わい続けたいからだ。私は、視力を失う日まで、「本」派であり続けるだろう。