『源氏物語』の桐壷更衣のモデルは中宮・定子だという大胆な仮説
『平安人の心で「源氏物語」を読む』(山本淳子著、朝日選書)では、驚くべき大胆な仮説が展開されている。
『源氏物語』の主人公・光源氏の母・桐壷更衣のモデルは、作者・紫式部の同時代人である一条天皇の中宮・定子だというのである。「この帝(桐壷帝)ときさき(桐壷更衣)の事件に酷似した未曾有の純愛悲劇が、『源氏物語』の書かれる直前、今上・一条天皇の後宮において実際に起きたということも知らなければ、当時の読者の感じた息をのむような驚きは、味わえないでしょう。『源氏物語』をひもといた平安人(びと)たちは、誰もが平安時代の社会の意識と記憶とでもって、この物語を読んだはずです」。定子は清少納言が仕えた女主人で、紫式部が仕えた女主人、中宮・彰子とは一条天皇の寵を競うライヴァル関係にあった女性である。
この説には確たる根拠があるのだろうか。「平安時代の天皇は一夫多妻制である。これを私たちは『英雄色を好む』と受け取りやすい。権力があるから次々ときさきたちを娶って、よりどりみどりで相手をさせているのだろうと。確かに平安時代、特にその初頭には、きさきの数は非常に多かった。・・・平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。確実に跡継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。・・・だが、子だくさんなだけでは天皇として不合格だ。跡継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではない。即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはならない。それはどんな子か。一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。ならば天皇は、第一にそうした跡継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない。個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった。・・・天皇にとって愛や性は天皇個人のものではなかった。最も大切な政治的行為だったのだ」。
しかるに、定子を真剣に愛した桐壷帝は、このルールを公然と無視してしまったのである。「こうした当時の常識に照らせば、桐壷帝が『いとやむごとなき際にはあらぬ』更衣に没頭したことは、掟破りともいうべき許しがたい事件だった。皇子誕生は政界の権力構造に係わる。実家の繁栄を賭けて入内したきさきたちが怒るのは当然のこと、『上達部、上人』など政官界の上層部が動揺したのも、これが自分たちの権力を揺るがしかねない政治問題だったからだ」。
「『源氏物語』が書かれる直前、時の一条天皇(980〜1011)には心から愛する中宮定子がいた。『枕草子』の作者・清少納言が仕えた、明るく知的な中宮である。だがその家は没落していた。そこに入内してきたのが、時の最高権力者・藤原道長の娘で、やがては紫式部が仕えることになる彰子である。定子は23歳、天皇は20歳、そして彰子自身はまだ12歳(いずれも数え年)。年の差もあって気が進まない天皇だが、道長や貴族たちの手前、定子よりも彰子を重く扱わなくてはならない。その苦しい胸の内は貴族たちの日記や『栄華物語』『枕草子』などから知ることができる。結局定子は翌年、息子を遺して亡くなった。・・・一条天皇は悲しみにくれた」。
「『源氏物語』の執筆が開始されたのは、この出来事のわずか数年後だ。いうまでもなく、桐壷帝は一条天皇に、桐壷更衣は定子に酷似している。・・・遺児の光源氏を天皇が溺愛し後継にしたいと願ったことも、定子の遺した息子・敦康親王に対して一条天皇が抱いていた願いと同じだ。物語を書き始めた時、紫式部はまだ彰子に仕えていない。一個人の立場から、ドラマチックな史実を効果的に掬いあげて、この物語を構成したのだ。だがそれは面白さを狙っただけではない。一条天皇の苦しみは、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれての人間的葛藤だった。紫式部の描く桐壷帝も、実に人間的だ。人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く。それが『源氏物語』だといえるだろう。こうした『源氏物語』は、定子を悼む天皇の心を癒やす力をも持っていた。当の一条天皇がやがて『源氏物語』の愛読者となったこと、これは紫式部自身が『紫式部日記』に記している」。
『源氏物語』に登場する天皇たちと実在の天皇たちとの関連づけも、非常に興味深い。「(宇多天皇が息子の醍醐天皇に与えた、天皇として守るべき心得を記した)実在の『寛平御遺誡』を、桐壷帝がきちんと守っている。したがって、桐壷帝は宇多天皇よりも後の帝、おそらくは息子の醍醐天皇と考えられるのだ。・・・桐壷帝が醍醐天皇にあたるとすれば、物語内で桐壷・朱雀・冷泉とつながる三代の御代は、実在の帝では醍醐天皇(885〜930)・朱雀天皇(923〜952)・村上天皇(926〜967)三代の御代となる。物語では父・長男・その弟と皇位が継承されており、実在の三代でもそれは全く同じである。『源氏物語』は、内容はフィクションなのに、歴史上の実際の時代が彷彿とするように描かれているのだ」。
なぜ、醍醐〜村上時代に物語の舞台が設定されたのだろうか。「それは、その時代を舞台とすることが、『源氏物語』にとっていくつもの点で効果的だからだ。第一に醍醐天皇は、作者にとっていわば縁者の一人であった。彼の母が、紫式部の曽祖父一族の出身なのである。またもう一人の曽祖父・藤原兼輔は、娘を醍醐天皇のまさに『更衣』に入れていた。その兼輔が建てた堤中納言邸に紫式部は住み、『源氏物語』を書いたと考えられている。彼女の時代には築70年は過ぎていたと思しい古家だが、先祖の息遣いはそこかしこに感じられたに違いない。一族が最も栄光に包まれていたこの時期を舞台とすればこそ、紫式部は遠慮なく上から目線で貴人たちを描くことができたのだ。二つ目は、醍醐天皇の父・宇多天皇である。彼はかつて、『源』の姓を賜って臣下に降りていた。それが同時代の政治劇の中で、臣籍を返上し皇太子に、さらに天皇にと、思いがけずものぼりつめることとなった。そのことがまだ記憶に新しい醍醐〜村上朝は、一旦源姓を賜りながらやがては准太上天皇の地位へと飛躍する光源氏の舞台としてぴったりである。そして三つ目に、何よりも醍醐・村上両天皇の政治である、年号から『延喜・天暦の治』と呼ばれるそれは、摂政や関白を置かない天皇親政だとして、一条天皇の時代には既に聖代として賛美されていた。いかにも光源氏の尊敬する父・桐壷帝、また光源氏自身が補佐してもり立てた冷泉帝の御代としてふさわしいのだ。こうして紫式部は、延喜・天暦期の実例を次々と調べ、それとわかるように物語に盛り込んだ。延喜・天暦期のイメージに助けられて物語はリアリティーを得、光源氏はその中をまるで実在の人物のように生きた」のである。
なぜ、そこまでして紫式部は物語に延喜・天暦期の現実みを与えようとしたのだろうか。「おそらくそれは『源氏物語』を、読者が想起するもう一つの似た時代から引き離すためにこそ、色濃く必要だった。・・・『女御、更衣』という言葉は、物語の舞台が今上・一条天皇の時代ではないことをはっきり示す。しかし続く出来事はどうだろう。一族の没落したきさきが天皇の愛を一身に集め、それが『世の例』として政治家たちの困惑の種にもなるとは、まさに一条天皇の御代にあったことだった。この物語は、その記憶も鮮やかな貴族社会に向けて放たれるのである。ただ『いづれの御時にか』としらばくれるだけでは、物語は即座に一条天皇と結びつけて解されるに違いない。殊更に今のことではないと示し古い時代として描くのは、それを避けるためではなかったか。時代設定は、紫式部が『源氏物語』を守るすべだったのではないかと、私は考えている」。
これは非常に重要なことだが、紫式部はなぜヒロインを定子になぞらえたのだろう。「定子の人生を振り返ろう。14歳で一条天皇に入内し、唯一にして最愛のきさきとして輝いた。母が受領階級出身という庶民性、漢文が得意という知性は、共に天皇の心をとらえた魅力だったが、きさきとしては異色である。19歳で父の関白・藤原道隆を亡くしてから人生は急転。20歳の時、長徳の政変によって兄弟が流罪に処され、絶望した定子は出家した。人生を棄てたのだ。当然、一条天皇とは離別となったが、異例にも彼は翌年彼女を復縁させた。それは、天皇は権力の後ろ盾を持つきさきをこそ寵愛して子を産ますべきという、摂関政治のルールを逸脱する行為だった。定子は激しい批判を浴び、特に我が娘の入内を企図していた最高権力者・藤原道長からは陰湿ないじめをうけた。そんななかで、天皇の第一皇子を出産。道長の娘・彰子が入内した僅か6日後のことである。その後も道長によって皇后の称号が二分割され彰子に並び立たれるなど圧力をかけられ、長保2(1000)年12月、第三子を出産した床で、24歳の若さで崩御した」。因みに、紫式部も受領の娘であり、漢文に秀でていた。著者は、「定子こそが『源氏物語』の原点であり、主題であったと考えている。定子の悲劇的な人生が時代に突きつけた問いを正面から受け止め、虚構世界の中で、全編をもって答えようとした。それが『源氏物語』だと考え」ているのだ。私は本書で初めて知ったのだが、著者の「定子=桐壷更衣モデル説」、「定子=『源氏物語』全編のヒロイン説」、「定子=『源氏物語』の原点・主題説」は、十分な説得力を有している。
上記以外でも、本書から教えられることが多かった。「恋の『燃え度』を確かめ合う、後朝(きぬぎぬ)の文」では、「『きぬぎぬ』とは、『衣衣』のことだ。愛の一夜を共に過ごした男と女の、めいめいの衣をいう。褥(しとね)にいる間、衣は二人の体を覆っている。だが愛の時間が終われば、二人はまたそれぞれに衣をまとう。だから『きぬぎぬ』は、逢瀬の翌朝、二人きりの時間の終わる時をも指すことになった」と説明されている。
「情交の人々、召人(めしうど)たちの心」には、「邸の主人、または主人格の男性と情交関係にある女房(侍女)。こうした女房を、当時『召人』と呼んだ。・・・(主人の妻にとって)召人は恋人未満、人の数に入れるまでもない存在だからだ。・・・召人は召人、(男主人が)時折気が向いた時に、御帳台(座所兼寝所)に呼びつけたり局を訪ねたりするだけの相手なのだ。寝所では足を揉ませるなどし、やがてその気になればことに及ぶといった扱いなのだ。・・・人間性を踏みにじられている。まるで虫けらのような扱いではないか。近代以降の人権感覚を持つ私たちは、そう憤りを覚える。そしてそれはおそらく、紫式部の思いでもあったろう。だから『源氏物語』は、他の物語が召人を登場させなかったり、登場させても名もつけなかったりとほぼ無視しているのに対して、彼女たちに名を与え、その心を記し、時には歌までも詠ませているのだ。・・・そういえば紫式部自身、主人の中宮彰子の父である藤原道長と男女の仲であったと疑われている。その関係が召人のように継続的なものであったかどうかは疑問で、とすれば『召人にもなれなかった女房』という心を抱えて、紫式部はこれら召人たちを描いたことになる」と記されている。
「一族を背負う妊娠と出産」には、このような一節がある。「当時の女性は御帳台の中の『清筥(しのはこ)』で小用を足していた。月々の生理がなくなれば、その清掃にあたる『樋洗(ひすまし)』(の女性)たちが最初に気づき、やがては上臈女房に知られる」。
『源氏物語』に興味を抱いている者にとっては、見逃せない一冊である。