今もなおアメリカで黒人差別が暴力的になされている。こんな時だからこそ読んでみた。
『ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯』ヴォーンダ・ミショー・ネルソン著 原田 勝訳
ハーレムと聞けばただ混乱と暴力、時々は音楽の解放がまず浮かんでくるのは、私の側に未だにぬぐえない黒人差別観があるためだろうと思い、愕然とするが、そのハーレムにただ一人で黒人による黒人のための黒人専門書店を長きにわたって作り経営した人物の伝記である。
1904年ヴァージニアに生まれ、1976年80歳で亡くなっている。黒人の多くがそうであるように、彼も子ども時代は悲惨で、豚泥棒、ピーナッツ一袋の泥棒で鞭打ちの判決を受けたりしていた。その後も留置所を出たり入ったりしている。しかし彼は既にこの時期に黒人問題の根底にある点にきずき始めていた。裁判官に向かって次のように述べた。
「おれは、生計をたてるためにやったことがもとで、ここに入れられたんだ。白人だって同じことをしているのにさ」「盗みだよ。あんたたちはアメリカにやってきて、インディアンからアメリカを盗んだ。それに味をしめて、今度はアフリカへ行っておれの祖先たちを盗み、おれたちを奴隷にした」と。この時ルイス19歳。当時黒人の指導者としてはマーカス・カーヴィーが新聞「ニグロ・ワールド」を発刊していた。その主張はアメリカだけでなく、世界のいたるところに散らばっているアフリカにルーツをもつ、つまりアフリカから追われた人々と母なるアフリカを結びつけることであった。ここにはアメリカ国内での白人との人種の統合は意図されていない。
父親は誠実な商店主であったが、仕入れ値を白人より高くされたり明らかな差別を受けていた。父親はその店を子供たちについでもらいたかったが、先ず兄、ライトフットは新興キリスト教の「神の教会」を作り、着々と拡大していた。ルイスはというと、父が亡くなるとその葬式直前に1000ドルを盗み、姿を消してしまう。フィラデルフィアで賭博場を経営しているらしい。弟ノリスもルイスの後を追い、賭博場で働くことになる。その時期、兄の「神の教会」では、朝の4時からニューポートのイーストエンドの街頭へ出て讃美歌を謳いながら行進した。その意図が何であったかは明白ではない。黒人解放との関連は考えられないが、治安を乱した罪で罰金を科せられている(1922年)。ルイスの店でも騒ぎが起こり逮捕されている。これを機に兄の教会を手伝うことになり、その信者の女性と結婚している。この神の教会はラジオでの布教も行なっていてかなりの大きな教団になっている。ルイスは教会の仕事を如才なくこなしたようであるが、自身は満足していなかった。天国に行けば何ものでも手に入ると説教しても、ほしいものはこの世にある。ルイスは「わたしには、神が、誰に対してであれ、空腹に満足せよ、などと言うとはとてもおもえない」と考えている。そして、黒人は自分たちのことを知ることが必要ではないかと強く考え始めることになる。白人の主人たちはこういっていた「学問は世界でもっともいい黒人をだめにする。黒人に読み書きを教えたら、いい奴隷にはならない」。
ルイスは42歳にして、個を消しさる宗教など望まないとして「神の教会」を去り、ニューヨークへ戻った。再び博打や麻薬の運び屋等をしているが、兄のライトフットは「全米黒人地位向上記念事業」と称してヴァージニア州に200ヘクタールを越える土地を購入して、農場を作る計画を進めていて、ルイスにその参加者募集の仕事を与えた。しかしニューヨークでの募集はうまく行かず、事務所もしめることになるが、ルイスはこの募集計画に無理があることに気づいていた。ハーレムの住人に荷物をまとめてヴァージニアへ移住せよと言う事自体がそもそも黒人の実態に即していない。ハーレムの黒人の居場所はここである。それとともにルイスの居場所もここだと確信することになる。そしてルイスは多くの黒人と接する中で、知識、本を読まねばならない、黒人の魂を知らねばならない、どこにも売っていない「黒人のために、黒人が書いた、アメリカだけでなく世界中の黒人について書かれた本」。そこから黒人男女が発する声を聞き、学ぶ必要がある。兄の黒人募集の事務所は売ってつけだった。そこを本屋とすることにしたのである。ルイス44歳。1939年のことである。
初めから順調であったはずはない。ハーレムを呼び売りしていたりした。また、脚立の乗って呼びかけたりした。こう云っていた「カラスみたいにまっ黒でもいい、雪みたいに真っ白でもいい、でも、ものを知らなきゃ、そして金がなきゃ、どこへも行けない」「もちあわせがなくてもいい、とにかく店に入ってくれ。奥に部屋があるから、そこでなら、ただで読んでいい。学校だけが教育の場じゃない」。黒人の子供たちにも影響が出た。ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストアの名前は次第に知れ渡って行った。間口は狭く奥に入ると深く、店の中は本やポスターや絵でいっぱいで、そこらじゅうに人がいて、通路を歩くのも大変な混雑であった。60歳の時、店の店員であったベティと結婚した。そして子供が生まれた。ハーレムの人たちは彼を教授と呼んでしたった。
後に有名になるマルコムX。十代の彼はハーレムにやって来た時はただのガキで、際どい商売で生きていた。おかげで刑務所に入った。しかし教育が彼を救った。刑務所の図書館で辞書まで読み尽くした。そして黒人イスラム運動組織「ネイション・オヴ・イスラム」へと進み出した。当時公民権運動のマーチン・ルーサー・キング牧師も黒人解放運動の旗手として台頭していた。1958年キング牧師はハーレムのブルームスティン百貨店でのサイン会場で女性にナイフで刺される事件があった。傷は深かったが急所を外れた。このサイン会についてルイスとナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストアの支持者数人がキング牧師が黒人従業員を雇わない百貨店でサイン会を行なうことに対して非暴力的な抗議活動を行なった。ルイスの信念は徹底していると言わねばならないだろう。キング牧師はルイスの店に来たこともなく、キングの本を出している出版社も来なかったということである。キング牧師にとってハーレムはなんだったのだろうか?ルイスはこう言っている。「キングはすばらし活動方針をもっているし、口にする言葉は洗練されている。でも、教養がありすぎて、ポケットに辞書を入れておいて調べないと、なにをいっているのか、ふつうの人にはさっぱりわからない」。当時ルイスはFBIの調査対象になっていた。しばしば警察の介入も受けた。ガーナ大統領としてのクワメ・エンクルマとも出会い、友好関係を保っていた。しかし、マルコムXの活動拠点として店は重要な役割を負ったようだ。そして1965年2月22日、そのマルコムXがハーレムで暗殺された。この日ルイスは同じ壇上に立つ予定であった。しかし、息子をスケート場に迎えに行っていて遅刻したのであったという。ハーレムの黒人の落胆は大きかったという。
その後、新たに台頭したのが所謂「ブラック・パワー」である。ブラック・パンサーの党員たちも又彼の店に集まった。ストークリー・カーマイケル、リロイ・ジョーンズ、H・ラップ・ブラウンらである。彼らに対してもルイスは「黒は美しい、でも、知識こそ力だ」と諭した。1968年、ルイス72歳。エルドリッジ・クリーヴァー『氷の上の魂』を出版した。ルイスは出版社にクリーヴァーがハーレムに来るのでサインをしてもらおうと思い500部を注文したが、信用調査がされていないと言う事で受けられないと言われた。しかし、取次に出た別の社員が「あなたは、何年も前から7番街で黒人の本を売っている方ですか?」と尋ねた。「そうだ」と答えた所、本は直ちに届いた。そこまで有名になっていた。私も何んと間違えて覚えていたのである。『氷の上の魂』を読んでいた。そしてその著者はストークリー・カーマイケルだと覚えていたのである。本当に記憶とはいい加減だ。お恥ずかしい。
その後、都市計画に絡み店は移転させられた。この立ちのき命令にはハーレムの住人達が抗議の声を上げた。ハーレムの住人達は、この書店が奪われることを望まなかった。1度目は移転が実行されたが2度目はニューヨーク州のロックフェラー副知事の約束が反故にされ、店をたたむことになった。5冊から始めた書店は黒人に関する本ばかり22万5千冊の在庫があったと言う。
知識こそ力。アメリカ国内では未だに黒人への差別的暴力は続いている。こんな時だからこそ、この本の意味が深く心に響くのかもしれない。
知識によって闘うのだ。
わたしは、だれの話にも耳を傾けるが、
だれの言い分でも聞き入れるわけじゃない。
話を聞くのはかまわないが、
それをすべて認めちゃいけない。
そんなことをしたら、
自分らしさはなくなり、
相手と似たような人間になってしまうだろう。
勢いこんで話してくる人を喜ばせ、
それでも、決して自分を見失わずにいるには、
けっこう頭をつかうものだ
――ルイス・ミショー
魔女:加藤恵子