「それでも地球は動いている」と言ったのはどうも嘘らしい。
「それでもガリレオは偉い」
『ガリレオ裁判――400年後の真実』田中一郎著 を読む。
ガリレオと言えば異端審問に果敢に闘い、敗れてもなお信念を変えなかった信念の科学者!!と思っていたら、全然違うんだそうだ。ちょっと驚きの真実の著書である。なぜこのようなガリレオ像が定着してきたかは、啓蒙時代の科学優位の時代に作り上げられた理想像としてのガリレオであって、当時のガリレオが何に嫌疑をかけられ、異端審問にかけられ、それにガリレオがどう対処したか、判決がどうであったか、なぜ異端として処刑されなかったのか、そのようなあれやこれやについて、事実が明らかになったのは、なんと1992年のことなんだそうだ。知らなかった。
もちろんこれまでガリレオ裁判の記録は出版されていて、ガリレオの偉大さは明白であったと思われていた。しかしガリレオ裁判が当時の異端裁判としては異例ずくめであった理由が判然としなかったのだそうだが、このような状況を変えることになったのが、1979年11月10日、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところと」と題する講演である。
この講演は、ヴァチカン宮殿で催されていたアインシュタイン生誕百年の祝典のなかでなされたが、ガリレオ裁判にとって重要な転機となったこの講演をきっかけとして1981年にガリレオ事件調査委員会が設置され、それまでヴァチカン秘密文書庫に所蔵され、外部の人間の目に触れることのなかったガリレオ裁判記録が明かるみに出ることになったからである。
そして、ヨハネ・パウロ2世は、科学の真理と信仰は対立するものであってはならず、また科学に関する学説に教会は口をはさむべきではなく、神学者は学説から導かれる科学的真理と信仰の真理との調和を目指すべきだと述べている。つまり、科学的真理と「聖書」の記述が異なる場合、「聖書」のほうを文字通りの意味を超えて解釈しなければならないというガリレオの主張を認めたのである。ガリレオ事件調査委員会の報告は1992年10月31日に出され、同日に教皇の「信仰と理性の調和」という講演も行なわれた。こうして、明らかになった、ガリレオ裁判の真実は、意外なものであったわけである。
その前提として、ガリレオは在野の科学者ではなかったこと。当時の超有名人だったことである。トスカナ大公付き首席数学者兼哲学者であり、間接的には教皇との関係もあった人物である。そして、真実を明かすことになったガリレオ裁判記録はヴァチカンの秘密文書として公開されてこなかった。さらにめちゃくちゃ数奇な運命を経ている。
なんとナポレオンが1797年にイタリア侵略の際に膨大な秘密書類を持ち出し、フランスに持ち帰った。多分その目的はガリレオ裁判の記録を出版し、科学の進歩を阻んだカトリック教会の蒙昧さを衆人に晒すことだったらしい。しかし、出版以前にナポレオン自身が失脚し、王政復古でルイ18世はローマへ文書を返還すると申し入れたのであるが、膨大すぎてローマ側が輸送費用が出せな事態となったり、ナポレオンのエルバ島脱出による混乱で所在の在りかが不明になってしまった。
驚くべきことに1843年になりウイーンで発見された。所持していたのはルイ18世の側近だったブラカ伯爵の未亡人で、7月革命時に伯爵がウイーンに亡命した時に持ち出したらしい。しかしこれが全部だったかは不明のようだが、ともかくローマに戻り、秘密文書館に再び封じ込められたというわけである。
ガリレオの行なった科学的な事象は自作の望遠鏡による天文学上諸発見からコペルニクス地動説の正しさを確信したと言う点にあるのだが、彼は自らの観察の結果の指し示すことと「聖書」の記述が矛盾しているように見える場合には、「聖書」のほうを解釈し直すことでその矛盾を解釈しようとした。
私はキリスト教に詳しくないので、正確を期せないが、「聖書」には地球は動かないということを連想させる記述は2カ所位しかないのだそうだ。つまり「聖書」の記述に反した知見が問題になったというのは単純すぎるのだそうである。
ガリレオが宗教裁判にかけられたのは実は2度あり、一度目は1615年、ガリレオが異端思想を抱いているという告発が検邪聖省(ローマ法王庁では異端審問所ではなく、内部の機構として存在した)になされた。
検閲されたのは2点で、
1.太陽は世界の中心にあって、一切の運動をしない。
2.地球は世界の中心になく、不動でもなく、ぜんたいとして日周運動をする。
この二点が、切り離されていたことに大きな意味があったのだそうだ。
既に天文学的知識が蓄積され、コロンブスがアメリカ大陸に到着し、バスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓していた当時、地球が平板であり、地球が宇宙の中心であるということは知れ渡っていて、「聖書」の記述をもって「異端」とすることには無理があった。そのために、たいようの不動性についてだけは厳しく異端とし、地球の運動についてはいたんとまでは断定しないというキリスト教会の事実が、ガリレオのその後の仕事と裁判に際する戦術となった。
この1616年のガリレオの特別委員会の告発文は「・・・ガリレオにたいして太陽が世界の中心にあって動かず、地球が動くと言う意見を全面的に放棄し、今後はそれを口頭であれ文書によってであれ、いかなる仕方においても、抱いても、教えても、あるいは擁護してもならない」と命じ、これに対して作られた考証人の文書はこれを守らない場合は「聖省は彼を裁判にかけるであろう。この禁止命令にガリレオは同意し、従うことを約束した」とあるのである。
この文書については、後の1633年の宗教裁判に突然持ち出された。ガリレオの裁判の戦術としてガリレオの側から持ち出されたことで、裁判自体におかしな影響を与えることになる文書なのであるが、この1616年時点では、彼を取り巻く各種の勢力の綱引きの中で、微妙な判定ではあるがガリレオはこの宗教裁判で何の咎めうけることがなかった。
その後、危険をはらんだ平穏な日々のなかで天文学に関する書物を書いている。『偽金鑑定官』なる本は、彗星のものであったが、実はガリレオの方がまちがったアリストテレス的な見解を述べていて、その点では「聖書」に抵触することはなかったが、より正確であったグラッシの『天文学的・哲学的天秤』を辛らつに批判したことが、それまでガリレオに理解を示していたイエズス会士を敵に回すことになり、1633年の宗教裁判へとガリレオを導いたようである。なぜなら、このイエズス会こそが異端裁判の中核を担った組織であるからである。
ガリレオの、というよりは当時の科学者一般のと言うべきなのかもしれないが、宇宙を「聖書」と並ぶもう一つの書物となぞらえ、自然の研究から神の偉大さを汲み取ると考え、キリスト教会に敵対する意図は全くない。
そのような中で、ガリレオの『天文対話』が出版された。正式タイトルは『ピサ大学特別数学者、トスカナ大公付き哲学者兼首席数学者、リンチェイ・アカデミー会員、ガリレオ・ガリレイの対話、そこでは4日間の会合においてプトレマイオスとコペルニクスとの二大世界体系について論じられる』というもので、えらく大層な感じがするものだ。
前回の告発からだいぶ時間がたっている。実はこの間に教皇庁内部では内紛があり前回ガリレオに味方した勢力は一掃されていたという事情もある。この書物は1000部も作られたのだそうだが、当然それを許可した人物や好意を表明した大物もいた。しかしなぜか教皇は怒った。嘘かまことか扉絵の下部に三頭のイルカが輪になっている図が描かれていた。これが教皇就任直後に、弟と二人の甥を教皇庁の重職に取り立てたことを揶揄していると曲解したというのであるが、これは単に出版元の商標であったことはのちに判明している。
勿論こんなことが問題だったわけはないのであって、教皇は自分の忠告に背いて出版した『天文対話』の出版理由を測りかねていたということらしい。そしてどんどん事態は悪化したが、教皇は「ガリレオが検邪聖省によびだされることのないようにようじんするがいい」と側近に伝えているということである。この時点では、裁かれるのは書物か、ガリレオかの判断はなされていなかった。
そしてついに裁判が開始された。1632年9月23日の検邪聖省集会において、ガリレオをローマの異端審問所に召喚する決定がなされた。私たちはガリレオが裁かれたのは地動説を主張したからだと思っていたが、そうではないようなのだ。この文脈が良く理解しがたいのであるが、コペルニクスの地動説を支持しても、それを仮説として理解する点では問題ないのだという。ガリレオも者論理で自らの主張を仮説として提示していた。さらに私たちが誤解しているのが異端審問についてで、宗教裁判は有罪か無罪かを判定する場ではなく、異端の疑いのある考えを抱いた意図を明らかにすることを目的としていた。異端の嫌疑をかけられた被告は告解し、教会は彼の堕落した魂を救済することが任務であった。
さて、ここからが本著のメインになるのであるが、ガリレオがこの裁判にどう対応したのかなのである。地動説を認めない頑迷な宗教人と闘った英雄的科学者、ガリレオというイメージを壊すようなやりとりが展開されていたのである。彼は第一回審問で地動説が「決定的でない」ことを示そうとしたと述べていたが、更には「退けようとしていた」とまで言っている。この供述から、ガリレオはいとも簡単に地動説を放棄してしまったと解釈することもできる。
事実、この発言のためにガリレオの偉大さが損なわれたと考える人々も多い。しかし当時は、関係者以外はこの日のガリレオの供述を読むことができなかった。ガリレオもそのことは知っていたはずである。現代になって、ようやく誰でも読むことができるようになったという事実は無視されるべきではない。
今回の供述に限らず、ガリレオが一貫して主張しているのは、コペルニクスの地動説が真実であると考えたことはないということである。そして、もし信じていると誤解される書き方をしていたとすれば、「むなしい野心」から出たことであった、つまり筆がすべったのだと主張していたのである。これはガリレオの本心から出た言葉ではないだろうし、1625年10月20日にパリのエリア・ディオダティに出した手紙からはっきり読み取れる。
そこには、「再び『海の干潮についての対話』にとりかかっています。3年間脇に置いていましたが、神のお恵みにより正しい方向が見つかり、この冬のうちに仕上げられるはずです。わたしが信じるに、これはコペルニクス体系の最強の裏付けとなるでしょう」と述べられていた。かれの闘いは、自分の書物が禁書となることを何としても防ぐことに意を注いだようなのである。そこで、異端審問官の意を汲んだかのふりを演じて、『天文対話』が禁書目録に掲載されるのを防ぐ唯一の方法として、4日間の対話に5日目さらには6日目を加えてーすでに出版された4日間の対話を書きなおすとは言っていないー検邪聖省の意に沿う議論を展開することだった。
しかし、ガリレオの提案は採用されることがなかった。もし提案が受け入れられ、彼がそうっしていれば、『天文対話』が禁書になることは避けられたかもしれないが、ガリレオは偉大な科学者の名声を獲得することも、彼の苦難に満ちた生涯が後世に語り継がれることもなかったかもしれない。という経緯をとることになる。ガリレオの意図は通らなかった。しかし異端者として処罰されることはなかった。なんだか、断固闘ったと言う事ではないガリレオだが、彼は敬虔なカトリック教徒として全力で闘ったことは疑いえない。結局ガリレオは異端誓絶という手続きを経て、死刑は免れて一日投獄されただけで、翌日にはメディチ荘での軟禁へと減刑されている。
ガリレオが何の罪に問われたのかも、正確にしておきたい。それは直接には1616年の禁止命令に違反したというものであるが、本旨は「もし地球が本当に動いているのなら「それは惑星とみなされなければならず、神学の真理と大きく食い違う」という見解である。「聖書」の記述と大きく食い違うといわずに、「神学の真理と大きく食い違う」と言っているのは注目に値する。
地球が宇宙の中心になく、他の惑星と同列の地位まで引き下げられるのなら、その地球上に住む人間の地位も同様に引き下げられることになるだろう。特別な存在として神の姿に似せて創られ、宇宙の中心にあって天上の神にたえず見守られ、その信仰のゆえに昇天することができるが、逆に世界の底にある地獄に落ちることもありうる。この不安に満ちた人間という危うげな存在は、信仰によってのみ平安を得ることができる。
この考えは、天動説が示す地球中心の宇宙において説得力をもっている。地動説は、何世紀にもわたって人々に信仰されてきたキリスト教の根幹、人々が拠りどころとしてきたものを台無しにしようとしていると考えられたのである」。
そして「それでも地球は動いている」はどこから出てきたのだ?という疑問だけが残る。
この逸話が突然出てきたのは、トリノ生まれ出イギリスに長期滞在していたジョゼッペ・バレッティが1757年に出版した、『イタリアン・ライブラリー』においてである。
この逸話が18世紀半ばに出版されたのは偶然ではないだろう。すでにニュートンの万有引力の法則によって太陽のまわりの地球を含む惑星の運動が説明され、誰の目にも地動説が揺るぎない真実であると映っていた。
このような科学の発展を背景として、ガリレオがキリスト教と闘った英雄とみなされるようになっていったのだそうである。裁判所から出て来て、そんなことを呟いたら、即座にまた捕まっちゃうだろな―と私は長いこと思っていた。この私の馬鹿頭の疑問は氷解した。ガリレオと言う人の真面目さとともにしたたかさも理解した。ただ突っ張ればいいものでもないという行動のパターンは重要な戦術だと思い返した。
ささっと読めますので、冬休みにどうぞ。
魔女:加藤恵子