学魔高山師の講義の中にちらりと出て来て、「読んでおけよ」といわれたのであるが、実はこの本購入済みで、本棚にあったのだが、ともかくでかくて、読んでいなかった。それをこの安倍政権に抵抗する毎日の街宣の合間に読むんだから大変であったことよ。
2009年に出版されているので、だいぶ前という事になるが、「醜」ということを論じたということの秀逸さはやはりエーコのすごみではないかと思う。西洋においては、いや世界いずこにおいても、「美」についての論考・評論・哲学は枚挙にいとまがない。しかし「醜」を論じ、その論を構築するために、集められた文書・絵画・小説の類を著書に配置し、いわば「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー)としての本として構成したエーコのお手並みは感嘆させられた。しかし読む方はたまったものではない。全く遅々としてすすまず、頭には入らず、外出してもなぜか醜い物に目が行ってしまい、これって意識が同期してるんじゃないかと思ったりした。
学魔高山師のおおせによれば、洋書を読むコツは、まず袖にかかれている概要を読めば90パーセントは読んだも同然とのことであるが、この訳文にはこれがないというか、あまりにも簡単な意味をなさない紹介文になっている事は残念至極。
とういわけで、まずエーコが序文で言っている事が「醜の歴史」を探求する本質だと思える。曰く。
「いずれの世紀も、哲学者たちや美術家たちは美の定義を提起してきた。彼らの証言のおかげで、美の観念の通史は、再構成が可能である。ところが、醜に関しては事情が異なる。醜はほとんどずっと、美と対立するものとして定義されてきた。
醜の歴史と美の歴史に共通するもう一つの特徴は、われわれは西洋文明のみにおけるこの二つの価値の変遷を記録するに留めなければならないことだ。それらが美的な楽しみ、神聖な畏怖、あるいは笑いを引き起こすためのものであったのか、われわれに語ってくれる理論的な文献がないのである。
では、醜は美の反対物であると単純に定義できるだろうか?反対物というのは対立概念の変化によってかわるものだが。醜の歴史は美の歴史のシンメトリカルな対抗物であるとしていいのだろうか?
この言語共同体の感性から明らかになるのは、「美しい」の類義語はすべて、私欲を離れた評価的反応だと思われるのに対し、「醜い」の類義語はほとんどすべて、たとえ激しい反感、憎悪、恐怖でないとしても、不快の反応を常に示していることだ。」
簡略ですべてを云い尽くしてしまっているのであるが、中心概念はここであろう。
「醜の歴史は美の歴史のシンメトリカルな対抗物であるとしていいのだろうか?」この?を徹底的に突き詰めて証明したのが本書である。つまり、美だけが人間にとって快であり、意味あるものであったならなぜへんてこな絵画や彫刻、その他のイメージが残るのかが大問題である。たしかに醜いものを排除するある一定の社会規範の在り様は存在するが、その実、周囲にはそれに反する醜く、奇怪で不気味なものが張り付いているのが歴史であることを感じながら、それは単純に美の裏返しで、美を補てんするだけの存在であると考えてしまえば、人間の本質の真の部分はまず捉えきれないであろう。ギリシヤ・ローマの古典古代において美の在り様は均整のとれた彫刻やレリーフに見られることは衆人の知るところである。それを裏書きするようにプラトンやアリストテレスやらがどうも「自然の中に醜は存在しない」、「醜を表現することを避ける」というようなことを書いているらしい。それほど均整のとれた美を求めたようなのだが、その裏にはヘシオドスが書き遺した英雄たちの黄泉の国(ハデス)には、めちゃくちゃ怖い怪物が登場している。もっと有名な例はオイディプスだろう。近親相姦により最も美しい者でさえ「醜い」行為を行なうということ。
キリスト教に関して言えばさらに自体は深刻だ。美しいマリア像の存在にもかかわらず、なぜあれほどの眼を覆うキリストの磔刑像が今に至るまでキリスト者に信仰の源泉になり得るのか。あの悲劇の人キリストの像は美しいのか?それとも醜いのか?キリスト者ではない私には美は感じられないが、アウグスティヌスは『説教集』でこう書いているという。「キリストは自ら醜くなられたのだ。とこしえに美しくあられる方なのだ(中略)われわれが目にした主は美しくもなく、魅力的でもなかった。(中略)十字架にかけられた主は醜かった。しかし、その醜さがわれわれの美となるのだ」この後はいわゆるキリスト教の真髄である主は全人類のために十字架に架けられたのだという風に論じられてゆくが、やっぱり十字架上のキリストは醜いというわけである。それを美と意識するのは神性という精神が介在しなければならないわけである。その神性を強調するために中世には地獄やら悪魔やら、殉教者の苦しみの図像やら『黙示録』的あらゆる醜が描かれ語られ、民衆の世界に侵入することになる。実は庶民だけがこの醜悪な存在に心惹かれていたわけではない。キリスト教の中心部にもどういうわけか、いろいろに現れている。ダンテの『神曲(地獄篇)』にはあらゆる醜悪なものの総決算のように多種多様な醜さが列記されていて、醜いと言う事の限界を知ることが出来るテキストとなっているそうだが、私は読んでいないので、確証が持てない。
キリスト教は美を表現するためにむしろ地獄の図像を大聖堂、写本挿絵、フレスコ壁画に蔓延させることで信者の引き締めにかかっている。この事は別にキリスト教だけではない。日本にも地獄絵があり、子供を怖がらせて来た。あれを楽しんだ子供はいないだろう。キリスト教世界で怪物、たとえばパリのノートルダムの屋根の上に居る変なもの、あれは怪物なのだろうが、あんなものを教会の上に置いているのはなぜだと私も思う(私は友人がフランスに留学したとき、あの怪物を写真にとって送れと頼んだのだが、当人は意味が解らなかったらしく、実現しなかった)。この点をエーコはこう記している。
「このように「醜悪きわまりない」怪物たちを敬虔な修道士たちはどのように思っていたのだろうか?もちろん、その後の数世紀もそうだったが、装飾写本の頁の欄外(いわゆるマルジナル)やロマネスク聖堂の柱頭上の奇怪な生物たちを楽しむと同様に楽しんでいたのである。中世人はこれらの怪物たちを魅力的だと思っていたのだ。」と。
さらに注目すべきは、中世社会において神の作りたもうたものはすべからく美しいという精神にまで醜を救済している。アウグスティヌスによれば、怪物たちは神の被創造物である限り美しいのだそうだ。さらにはこうなる。「しかし、ルネサンス時代にも、怪物たちはまさにその印象的な醜さゆえに友好的な役目を担った。たとえば「記憶術」では古代から、言葉や考えを記憶するために、宮殿や都市の、忘れ難い恐ろしい彫像が置いてある様々な部屋や様々な場所とこれらを結びつけることを勧めている。というわけで、ペトルス・フォン・ローゼンハイムの『記憶術』(15-2年)には、『黙示録』の怪物や動物誌の生物と確かに縁続きの記憶を助けるイメージが登場する。
最後に、怪物たちは錬金術師たちの異種混交の宇宙で巨大な成功を収めることになる。そこでは、怪物たちは賢者の石こと長寿のエリジール(妙薬)を手に入れるのに必要な様々なプロセスを象徴する。錬金術の秘伝取得者たちの眼には怪物たちは恐ろしげにではなく、素晴らしく魅惑的に見えるのだとわれわれには想像できる。」もはや単純に美しいものが存在意義があるという事ではないという美と醜の領域のお互いの侵犯がなされている。
ここで本書の中心論題と離れている事なのだが、エーコが書いている事に触発されて思い出されたことがある。それは笑いと言う事についてのキリスト教の認識である。じつはエーコの超有名な『薔薇の名前』の中で修道院の中で修道士たちが延々キリストは笑ったかという論争をしている場面があったのだが、この事が私は「何これ」と疑問に思っていたのだ。エーコは本書でこう書いている。「初期のキリスト教世界は、笑いに対して寛容ではなかった。笑いは悪魔的放縦だと見なされた。聖書外典の福音書、『レントゥルスの書簡』に由来する伝承によれば、キリストは決して笑ったことがなく、イエスの笑いに関する論争は何世紀も続いた」。そうなのか?あのシーンは修道士たちの石頭を笑ったのではなかったのか、と得心がいった次第である、無知とは恐ろしいものだ、心して接しなければならない。
さて、美を論じ、醜を論じるとなれば、当然女性の美に触れざるをえなくなる。男性の醜さは、むしろ痛快さを示していることもある。ラブレーのガルガンチュアとパンタグリュエルは古典的基準からは何外れてプロポーションが破綻している。奇形である。しかし私たちはバフチンの論によって猥褻が肉体の権利として肯定され、奇形であるがゆえに栄光であり、時代の英雄として立ち現われる。醜が栄光に変わる瞬間をバフチンによって見せつけられるのである。
しかし、これで醜の解放がなされたと思っては大間違い。肝腎の女性の美、醜とはなんだという点に再びたちもどるのであるが、問題は魔女だ。私もみずから魔女と名乗っているし、70年代の歴史学でもかなり多くの論考が著されたり、翻訳されたりしたがどうみても魔女のイメージは悪徳、不快、醜さ、恐怖が張り付いている。やはりアンチフェミニズムというか男性優位主義というかそんなものがありはしないかとは思っていた。そこをエーコはきちっと捉えている。いまではルネサンス後期はマニエリスムとして捉えるという認識は当たり前になっているし、そこも含み込んで次のように書いている。「このように、マニエリスムとバロックは古典の美学が破格だとした要素を恐れずに用いる。従って、醜女のテーマも異なった視点から眺められる。今や、女性の未完成さは興味を惹く要素として、時には官能をそそる刺戟として叙述される」。さらに魔女について(すいません、自分が名乗っているものだからしつこい)、エーコは凄いことを書いているのだ。平然と。「本書の関心の対象となるのは、ほとんどの場合、火刑の犠牲者の多くが魔女であるとの告発を受けたのは、「醜女だったから」ということだ。そして、その醜さについては、このようにさえ想像された。彼女たちは地獄のサバトでは誘惑的な外見の生物の変身できるけれど、内面の醜さを暴露するような胡散臭い特徴を常に身に刻印されているというのだ」。わーすいません。醜いことはキリスト教世界では許されざる悪徳なんだわ。火炙りは当然なんだわ!!
ここからは怒涛のように進みますのでご容赦を。ルネサンス以後は新大陸の発見により未開人(西洋から見たらの話で、高度な文明を皆持っていた)や奇妙な動物がモンスターとして西洋の宮廷に運ばれ、さらには「ヴンダーカンマー」つまり驚異の部屋が生まれるのであるが、これは醜という概念からは離れたのかは判然としないが、驚異というものが文化の中核に坐った。さらに本書の展開は学魔高山師の講義の流れをなぞるように、人体解剖の問題へと展開し、次には人相学である。これは顔の容貌と性格と道徳的性癖を結びつけた偽科学であるが、変遷はあるものの最終的には「醜い者は生まれつき邪悪である」という偏見に行き着き、最悪の反ユダヤ主義へと行き着く。
一方、美の哲学の方からも変革が生まれる。18世紀、エドモンド・バークの書いた小さな本『崇高と美の観念の起源に関する哲学的考察』が崇高の美学が提示された。
「崇高の感覚が生じるのは、雷雨、嵐の海、近寄れない断崖絶壁、氷河、深淵、無限の広野、洞窟、瀑布を前にしたとき、空虚、暗闇、孤独、沈黙、嵐を楽しむときである。われわれには所有できないけれども、われわれに害を与えることのない何かに恐怖を覚えるとき、あらゆる印象が楽しく感じられるのだ」
ゴシック・ロマンにわずかに先立つ感性である。怖いけれども、心が引きつけられる。近代には「悪の不快な感覚形式」である醜が闖入したのだ。
近代の醜は文学に続々と登場する。『フランケンシュタイン』、『ノートルダム』、ヴェルディのオペラの主人公、最悪はゾラの短篇小説『醜い女』というのがあるのだそうだ。主人公の男が商売として、客の婦人の美しさを際立たせるために醜い女を貸し出す商売を始めるという小説だそうで、ゾラを憎みたくなる。近代は醜い女をさらに追い詰めていくわけだ。
また、不気味なものについてはフロイトの「無気味なもの」がホフマンの『砂男』の考察から説かれているのは、いまやあまりにも有名であるが、これについてもきちっと触れられている。そこから、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』や幽霊屋敷に引かれる心性が陸続きであることが解る。
最終的に醜は贖われるか?という心配に悩まされるが、その心配は杞憂のようだ。アヴァンギャルドの醜の勝利である。未来派の醜が挑発的な醜を表現し、ドイツ表現主義の醜が社会告発の醜を表現した。ダダ運動においては、醜の魅力はグロテスクをさえ越えて登場する。エーコの本書の最終章にはキッチュとキャンプという概念が詳細に書かれていて興味深かった。キッチュは何んとなく理解していたが、キャンプについては理解していなかった。1964年のスーザン・ソンタグの『キャンプについてのノート』が最も最良な分析をしていると言う。読んでいないので、正確な理解が出来ないが、
「キャンプ」とは、取るに足らないものを真面目なものに変えるというより、真面目なものを取るに足りないものに変える感覚の形式である(たとえば、もとは売春宿で演奏される音楽として生まれたジャズの聖別化によって起こったといわれる)。
「キャンプ」趣味は、自分たちの洗練された趣味によって過去の悪趣味を贖うことが可能だという知的エリート階級のメンバーの間で、反自然(人工、作り物)と誇張への愛を基盤に、一つの認識の形として生まれた」「いずれにしても、「キャンプ」な事物や人物はすべて、反自然の過激主義の要素を示していなければならない。(自然には「キャンピー」であるものは何もない)。キャンプとは、エキセントリックなもの、ありのままでないものを好むことである。」「ダンディーが19世紀の文化の点で貴族の代わりであったように、『キャンプ』は現代のダンディズムなのである。大衆文化の時代にいかにダンディーであるかという問いへの答えなのである。しかし、ダンディーが希少な、まだ大衆の享受によって汚されていない感覚を追求する一方で、キャンプの通人は、「もっとも下品で一般的な快楽において、大衆のアートにおいて」自己実現する」。ということなのだそうだが、ソンタグの研究によれば、キャンプ趣味の遙かな先祖はマニエリスムの芸術家たち、バロックの「ウイット(機智・気転)」、「ウイッツ」、「アグデッツア(明察)」、メラヴィリア(驚異)の詩、ゴシック・ロマンス、「シノワズリー(中国趣味)」や人工的な廃墟への熱中に遡る。この意味では、より広い趣味、マニエリスムやネオ・バロックの永続的形式という定義になるかもしれない。いずれにせよ、こうした分析によって興味深いポイントが明かるみに出される。おーーー、面白い。さらにソンタグはボス、サド、ランボー、ジャリ、カフカ、アルトー、その他多くの20世紀の芸術作品を挙げている。それらの作品の目的は調和を生み出すことではなく、より一層激烈で、解決しがたいテーマに取り組むことであった。
そして、このような分析から、醜の歴史にとって重要な二つのポイントに導かれる。「キャンプ趣味の究極の言葉は、「ひどいから美しい」である」。
やったー。赤塚不二夫ではないが「これでいいのだ!!」。単純なフェミニズム理論が大嫌いな私には、これは救いだ。醜女を心が美しいとか言うなよ。「醜いから、最低だから、美しいのだ」。私を見よ(笑)。
エーコ大好き。しかし、1キロ超の重さのある本です。
おいそれとはお勧めできないが、読みではありますよ。お時間があるかたはどうぞ。
魔女:加藤恵子