本作品は多分角野氏の実経験がかなり反映されているのではないかと云う印象である。1945とは、つまり日本の敗戦の年であり、敗戦に向かう昭和16年から20年の間に少女である西田イコが経験した戦争の現実とその厳しい現実に耐える力を与えてくれた幻想とが描かれている。イコの母親は15年に死に祖母の家に預けられる。父親は再婚するのだが、妊娠している新しい母親をおいて出征することになる。新しい母親光子さんもまた天涯孤独の人で、イコと祖母の家に同居することになり、そこで弟のヒロシが生まれる。イコは光子さんをおかあさんと呼ぶことが出来ないしヒロシをかわいいとも思えない。そんな感情が微妙に表現されている。その間、どんどん戦況は悪化して行く。父親のセイゾウさんは病気になり戦場から帰って来るが、またイコとは別れて暮らす事になる。食料事情はひどくなり、祖母とイコは買い出しにでるのだが今で言えば1年生と祖母がリュックを背負って米や芋を求めてぎゅうぎゅうづめの電書で行かなければ食べられない。そんな現実現時点で想像するのは困難かもしれない。
さらに戦況は悪化し、祖母(タカさん)の家が「建物強制疎開」の対象となり、国の命令で壊される。昔セイゾウさんの店で働いていていた小僧さんをたよって疎開することになる。利根川と江戸川が分かれる辺りの松田村という小さな村である。祖母のタカさんは同行しないと言う。二男の三鷹の家に行くことになる。東京を離れたくない。
セイゾウさんは工場に動員されているため、疎開先にはイコと光子さんとヒロシが住むことになる。イコにとっては最もたよれる父親のいない生活が厳しいものとなる。ここからがこの小説の中核を占める疎開という子供にとっての厳しい日々をどう耐えたかが心を打つ。学童疎開についての実経験談を書いた書物は少なからずあるし、その重要性も大切であるが、角野氏が描いた子供の目線での自然や不思議や幻想を見ながら、あるいは当時の子供たちはみなそうして現実に耐えたのかもしれないと思えたのである。疎開に出る時祖母のタカさんはイコに手拭で作った人形を渡してくれた。この人形の描写が何もない時代に精一杯の祖母の愛情がにじみ出ていて美しい。
「お人形はそんな(お年賀になじみの店が持ってくる店の名前がはいった手拭)手拭を縫い合わせて出来ていた。道理で手や足が長いわけだ。木口酒店とか、笹野畳店とか・・・青い色の印刷文字がついている。髪の毛は黒い毛糸、目は黒いボタン、口と鼻は墨で描いてあった。水色の帽子をかぶり、ワンピースを着ていた。もんぺじゃなかった。衿のとこに白いレースがちょこっとついている。「ありあわせだけど・・・・服と帽子はギンガム格子、取って置きの舶来品よ。どう、気にいった?」「うん、かわいい」私はすぐ、「チエコさん」となまえをつけた。」
この人形をもってイコは疎開先に移る。そしてそこでの生活の初めの驚きははねつるべの井戸である。滑車の井戸以前である。そして決定的であったのが、学校へ行くためにはトンネルの森を通らなければならないということであった。それが本書のタイトルともなっている。木が高々とそびえ、中から湿った風が吹いてくる。木の根っこがごつごとしていて、こぶだらけの道。初日にはセイゾウさんが一緒に行った。次の日からはイコは一人で通らなければならない。途中には道祖神がある。昔の御墓かもしれない。そんなトンネルを通り抜けて小学校に着くが、初日から東京弁が嘲笑される。疎開児童の経験談にはよく出て来る話しではある。しかしここで、初日こそイコはこの意地悪に耐えきれず、セイゾウさんと帰ってきてしまうのであるが、次の日からはイコはその方言を一生懸命使おうとして奮闘する。やがて田舎の子供たちもイコを受け容れて、無理するなという心使いをする子も出て来る。イコにとって問題はあのトンネルの森である。闇森というようだ。そこには脱走兵が逃げ込んだと仲良くなった田舎の子ノボルが言う。
イコはトンネルにあいさつすることから始める。光子さんが乾燥芋をつくるために手がかかり始めたヒロシをイコにおんぶさせるのだがイコは背中にヒロシを背負い、まえに人形のチエコさんを抱いてひもでくくりつけるのだ。イコがあるきながたチエコさんの手足はブランブランしたことだろう。その姿は珍妙ではあるが、子供にとっての心の支えが描かれていて、素晴らしいと思う。その姿でイコはトンネルの入口でこう言う。
「4年2組 西田イコですよ。隣に越してきましたよー。今日は、『とおりゃんせ』を歌いまーす」。
そして、それからはトンネルを通る時はおまじないを口にする。それが、
「イコがとーります、イコがとおります、イコがとおりますよー」と。
このおまじないは多分森の誰かに届いたのだ。そんなある夜、おしっこに起きたイコは家の外の便所に行った時に、トンネルの方から何か細い音がする。その音は寂しそうに震えて響いている。ハーモニカのようだった。でも怖くて逃げかえった。光子さんには言えない。そんな時にイコは学校からの帰り道で、御殿様の家のような生垣の反対側になっていた柿につい我慢が出来ずに手を伸ばして取ってしまう。窓が開き中から「持っていきなさい」と声がかかるのだが、柿は手から離れ、ころがってつぶれてしまう。イコは人のものを黙って取ったという屈辱が胸いっぱいに広がる。トンネルの近くにある沼の水辺で心を鎮めようとしてイコは下駄の片ほうを流してしまう。次の日、光子さんの下駄をはいて登校して、帰り道、トンネルの道祖神の前にくると、なくした下駄がぽつんと置いてあった。イコは脱走兵かもしれないと思い、怖さに震えながら、それでも「あり・が・とう」と声に出して言う事が出来た。森と誰かと、イコのこころは通じはじめている。
学校にはもうひとり疎開している女の子カズコがいた。カズコはイコよりさらに過酷な状況である。父親は戦死し、母親は結核で寝付いていて、小さな妹までいる。教室ではいつも何か書いている。イコはカズコと仲良くしたい。カズコは一人で書いていたのは絵なのだが、それは百科事典を覚えてきて書いている。そうしてカズコはこころを落ち着かせている。
セイゾウさんは時々は来てくれたが、イコはどうしても会いたくなり夜一人で家出を敢行する。人形のチエコさんおぶい、干し芋を持てるだけ持って肩かけの袋に入れて。トンネルの所へ来るとハーモニカの音が聞こえる。その先に黒い影が見える。戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻いた、黒い影がハーモニカを吹いている。「そようなら」と云うと、ハーモニカの音が止まり、兵隊さんの影はゆっくりと頭を下げ暗い森の中へ消えた。「ありがとう」兵隊さんがいて、イコが通りますを聞いていてくれて、イコを守っていてくれた。自分だけが逃げ出したら、この兵隊さんはどうなるのだろうとイコは思いなおして家に返る。イコの無謀さを止めたのもまた幻の様な森の兵隊さんであった。
やがて東京の空襲が激化して、祖母のタカさんの家が焼け、タカさんは多分亡くなってしまう。さらに東京大空襲でセイゾウさんの生死が分からなくなる。光子さんは何度も探しにゆくが見つからない。イコはヒロシをつれてトンネルにお願いに行く。「おとうさんを返して下さい」。するとまたハーモニカの音が聞こえる。ヒロシにも聞こえているようだ。遠くの木の間から、兵隊さんの影が現れる。ハーモニカの音が広がり、やがて兵隊さんの姿はおぼろげに消えてゆく。
見つからなかったセイゾウさんは大空襲のなか大けがをして、記憶があやふやのまま立川の病院に生きていた。光子さんが連れ帰って来たが、口がきけなくなっていた。しかしすこしずつ元気になって来た。広島、ついで長崎に特殊爆弾が落とされた。疎開の友だちカズちゃんはお母さんが亡くなり、どこかに移っていた。イコはカズちゃんのまねをしてトンネルの絵を描き始めた。その絵をもってトンネルに入った。兵隊さんに見せたかった。胸の前に広げてこれ見て、「合いたい」と叫ぶが兵隊さんは現れないし、ハーモニカも聞こえない。イコはトンネルを走りだした。すると光を背景にして松葉杖のセイゾウさんがたっている。
「イコ、戦争は終わったよ」。
本書で角野氏が描いた少女の戦争体験の細部は多分当時の疎開体験者の多くの経験を敷衍するものだと思う。しかし、当時の一人の少女の心の支えが、森の木々であり、ひそやかに聞こえるハーモニカの音で、それが脱走兵かもしれないが、やがてそれさえもが一人で国に背いた兵士の寂しさを感じ取る少女の感受性の豊かさをこそ突出してのびやかに描かれたことは素晴らしい。そしていま、この作品が少年少女に読まれることを強く願うものであった。
さて、この作品を読むにあたって、『魔女の宅急便』を全巻読んでみた。それとの関係性を簡単に指摘しておきたい。トンネル、あるいは森というイメージの豊かさがまず挙げられると思う。魔女のキキが飛行を学ぶ木々にはかあさんの魔女のコキリさんが鈴をつけて、触れば鳴って危険を知らせるという成長過程で大切な役目をしている。また4巻には、「夕暮れ道」という章があるこの描写が「トンネルの森」に類似している。そして通り抜けた先には美しい景色と素晴らしい思い出を作ることになる出会いがある。また第3巻にはキキを振り回すケケという女の子が登場するのだが、この女の子が後に第6巻で次の世代のキキの子供の一人男の子のトトがあこがれる作家として再登場し、其の住む場所が森の奥になっている。またキキの子供の男の子トトが魔女になれるかも知れないと思い箒に乗って飛んでみようと試みる場所も又「夕暮れ道」でした。また「ふたごののっぽさん」という銀杏の先に住む不思議な老人も出て来る。樹木に霊性を感じるのはあるいは角野作品の特徴なのではないかという思いを持った。
ついで、宮崎駿監督のジブリ映画「魔女の宅急便」と原作とに比較についてであるが、比較すべきではないと言う思いを持った。本から受けるイメージと映画とはやはりどこか違和感がある。それは当然なんで、両方とも優れた作品であるという前提で、私個人が中核にするとしたら、これは外せないなーと感じた点だけを書いてみると、まず魔女の宅急便の仕事の対価は原作では一貫して「おすそわけ」になっている、一か所だけ駄目にしてしまったパーテーのおよばれの服を直す費用が足りなくて代金を少し頂きたいというとこだけであるが、映画では代金を受け取っている点に違和感があった。ついでキキが宅急便だけでなくお母さんにならって、くすりぐさを植えて薬草作りにも励むことになり、ひいては町並木やら「夕暮れ道」の先にもくすりぐさを植えるという点が一切描かれていなかったのは、なんか残念な気がした。また魔女が運ぶのはモノのこころなんだと言う事は台詞に現れていたが、もう一つ、「もちつもたれつ」という重要な台詞が一度も発せられなかったのはこれも残念。
原作の方の第6巻はキキととんぼさんが結婚して男の子と女の子の双子が生まれる。その子供たちの魔女への道が描かれているのであるが、男の子トトは魔女の血が半分まじっていながらなぜ飛べないのかと悩む。そこから自らの生きてゆく道を見つけ出そうとする姿がこれまた良く描かれている。多くの方は映画で知っている「魔女の宅急便」ですが、原作もこれまたとても美しい物語ですので、是非とも読まれることをお勧めします。
魔女:加藤恵子