魔女の本領
記録を残すべきだ。記録を残しておけば…

『革命とサブカル 「あの時代」と「いま」をつなぐ議論の旅』


あの時代という言い方が分かる世代は今や70歳代になる。あれから50年が経て、1968,69年に政治にコミットし、そして政治的には危さが増しているとしか考えられない今、それを担った当事者によって『全共闘の時代』を検証する本がやっと世に出始めた。その中でも、いささか特異とも思える本に、あまりにも端的に、的確に表現されている事に驚きと共に、感嘆を覚えた。

『革命とサブカル 「あの時代」と「いま」をつなぐ議論の旅』安彦良和著
『原点 戦争を描く、人間を描く』安彦良和×斎藤光政 著
を読む。

私はアニメというものに熱狂する時代はなかった。安彦良和を知るのは、彼がアニメの限界を感じてマンガに転じた後の作品、『ナムジ』、『虹色のトロツキー』を読んだことによる。しかしその後も又、追いかけているわけではないので、彼のガンダムに込められた精神性などを語れる資格はない。それゆえ、2冊の本を読んで、「全共闘」運動とサブカルへの関連性(あり、なしも含めて)を語れるものは何もない。しかし安彦氏が今、なぜあの時代を語ろうかとしているのかについては、深くうなずけるものがあった。氏はこう書いている。

「僕なりの結論を言ってしまうなら、『全共闘世代』の沈黙を、僕は概ね肯定的に考えている。それは、我々の体験の空疎さではなく、むしろ、重さ、巨きさの証だと考えている」と。

安彦氏が弘前大学の全共闘のトップであったことも知らなかったが、驚いたのはその仲間2名が連合赤軍に関連していたと言う事実である。青砥幹夫氏と植垣康博氏である。またその他にも東大安田講堂闘争に参加している仲間が2名。この多さに実は驚いたのである。弘前大学といういわば辺境の大学から当時の政治闘争の最前列にここまでコミットした学生が多数出ていたことは、山口昌男の辺境論ではないが、辺境にこそ最も強烈な文化の痕跡があるという論拠があてはまるような事実であった。しかし2冊を読みながら、ある部分、なんか笑えるのは、それらの尖鋭な闘士たちが、いわば偶然とかに振り回されて、前線に入り込んでいってしまったことである。最悪の結果であった同士16人を殺害する結果になった「連合赤軍」への加入も、さらに言えば同士を殺害するに至った経緯も又、そこがルビコンを越えることであったと言う認識が強烈ではないということに、些かのためらいを覚えた。しかし、特に植垣氏の逮捕後の在りようについては非常に重要な認識を持たれていたことに気付いた。それは永田洋子との関係である。連合赤軍問題が論じられる時に必ず言われる永田洋子の個人的資質についてであるが、植垣氏はそうすることで、連合赤軍の本当の意味での失敗の内実が見えなくなるということを強調している。永田、森の指導能力の問題と云う点はゼロではないが、党的な組織を志向すると必ず生じて来る「個」の抑圧という点を本来の全共闘運動は見据えていたことであり、にもかかわらずそこからそれまでの失敗を更に拡大した点をこそ後世に証言として残すべきだと述べている。この点で植垣氏は赤軍を作った塩見孝也氏と激しく論議していたということだがそれもまた知らなかった。多分この頃だと思うが、東大で行われた「全共闘」に関するシンポジウムに私は出ていたのだが、途中何かを発言しようとした最前列にいた人に、後列から「お前に発言する資格はない」という厳しい批判のヤジが飛び、その時立ち上がった人物が塩見であったことを思い出した。また植垣氏は永田洋子が脳腫瘍のためほとんど自己表現が出来なくなっていて、彼女が書いたとされる書籍『16の墓標』は自分がリライトしたことを明かしている。また永田が死刑判決を受けた後、親族しか連絡できないことをおもんばかり、これも弘前大学出身のIという方が結婚相手がいたにもかかわらず永田と獄中結婚し、連絡役を引き受け、死後遺体を引き取った後、全く連絡を断っていると言う事実をあかしていて、そのような犠牲を払う人の存在がいたことに驚かされた。植垣氏は他の方と異なり、みずから表現し、出獄後は色々の媒体で発言することについて、こう述べている。

「記録を残すべきだ。記録を残しておけば、そのあと再検証するときに捉えやすい」

今、日本政府は公の記録すら残さない、又は開示しないという姿勢が強い。その危険性は人である以上間違う事がある。その時の反省材料を残すと言う認識がないことの危険性は日々感じるところであり、植垣氏の指摘は思わぬところでうなずける点である。

この他、対談に登場する方々の経験と現在には時代に流されたとばかりは決して言えない方々ばかりである。その党派はいろいろで、当時中核で、いまも中核のかたや、第四インターで三里塚の闘争に参加して、管制塔の占拠に勝利した方が、現在すべての戦争(つまり革命戦争にも)に反対で、その理由は「暴力で勝利しても、維持できなかったら意味はない。それに暴力はエスカレートする」と述べ、安彦氏に「それを、「転向」と呼ばれたら?」と問われて、「「転向」なら「転向」でいいよ」。と断定的に答えていることもある意味凄味があると感じた。またこちらは完全に民青の医学部学生であった方の言動も印象的だ。その蟻塚亮二氏は「民青や全共闘の思想以前に「人は信じられる」ということの確信を強めて「真人間」になることのほうが自分の中では大きな課題だった。社会変革以前の問題」と述べていて、氏は精神医療に尽力し、驚いたことに最終的に沖縄に関わるのだが、その沖縄の精神医療を先進的に変革したブントの闘士だった島成郎の後継者となっていた。彼の沖縄感は本筋ではないので省略するが、今再び沖縄と本土政府の関係が激突する時には、ひじょうに貴重な証言になっている。

安彦氏の対談した方々の個人経験を読んでみて、弘前大学が特殊なんだとは思わないが、ひじょうに学生同士の関係が対立していないことになにかほっとする。中核と革マルの友人同士が雑魚寝していたり、大工仕事がうまいと言うだけで全共闘の活動に入ってきたり、占拠と云うのが実は、壊す予定の教室に入り込んで演劇やっていたり、全学封鎖も学校側と交渉するための要求がなくて、苦しまぎれに大学側と交渉していたら、誰かが勝手にバリケード築いてしまったり、安彦氏からして、安田講堂に行こうとしたら、金がなくてゆけなかったり、代わりに行った仲間2名も神田の古本屋に行くつもりが東大に入ったは言いが出られなくなって、2日間の闘争になだれ込んでしまう。とても東京周辺の学生運動にかかわった人たちには見られない穏やかな運動であったこと、しかしその後の厳しい時代をどうにか生き抜いたことはそのような遊び心によるのかもしれない。楽しくなかったらやらなかったという発言もあながち負け惜しみではないだろう。そして、その運動に内包されていた遊びの精神が次のサブカルを生み出したというのが安彦氏の見解の一部であるようだ。

安彦氏は全学封鎖の責任者と云う事で逮捕されて、除籍。東京へ出て、手塚治虫の所でアニメの世界に入って行く。その後のいきさつについては私にはよく分からない。ただ、全共闘、その後の連合赤軍事件後に消えてゆく政治運動の流れの中で次に社会的な動きになったサブカル台頭の間には5〜6年のブランクがあり、サブカルには社会性が欠けている点、正義の概念がないと言う指摘が当たっているのかどうかについても判断する力は私にはない。サブカルに「セカイ系」というのがあり、それがいまや終わっていて、今や「ナロウ系」というのが主になっていると言われても、なんかイメージが湧かない。しかしながら安彦氏がサブカル・アナーキズムという章を設けていて、そこに書かれている点にはうなずける点がある。

「アナーキズムは柔軟でなければならない。雑多で、寛容で、懐疑的で、時にヘソ曲がりで、心情と欲望にあふれていて、そして、何よりも自由でなければならない。そういう性質のために、アナーキズムはしばしば行儀が悪く、非常識で、非生産的で、時にはまったく馬鹿に見え、じっさい馬鹿だったりもする。

これはまったくサブカルそのものではないか。

前衛と称する党や尖鋭な党派が批判したように、アナーキズムが革命を成し遂げたことは未だかつてない。かつてないだけでなく、間違いなくこれからだって、ない。
しかし、それよりも間違いなく言えることとして、アナーキズム的な多様性や自由さを圧殺した「革命」は、歴史上どれも、革命ではなかった。最も近い経験である社会主義革命も、物理的圧制をくつがえした後に精神的な圧制の王国を築きあげて終わった。その冷たい現実とその後の荒廃を、言葉もなくみせつけられているのが現在という時代なのではないだろうか」。

安彦氏がマンガに転身する意識性もまた、非常に興味深いが、その中核にあるものが「戦争を描く」こと、そして日本国家の根源とは何かを突き詰めること、そして明治以降植民地化を進めて行く日本の在り様とは何なのか?そういう形で書き継がれているかれのマンガの世界にあるものは、2冊の本でも非常に努力して読者に伝えようとしている事がよくわかる。氏が世界をリアルに見ることを作品の原点だという。その原点は弘前大学の全共闘であったであろうことは今振り返ればまちがいないのだろうが、巻末に載せられた「読んできた本、おすすめの本」という氏のマンガに同じ風を感じてきたような気がした。これはジュンク堂池袋で開催された「安彦良和書店」と「憲法」と「日本のいま・これから」の書目だそうだ。

宮沢賢治詩集
「勝海舟座談」 厳本善治編
「時代閉塞の現状」石川啄木
「甘粕大尉」 角田房子
「新撰組始末記」 子母沢寛
「李香蘭・私の半生」 山口淑子・藤沢作弥
「マフノ運動史」 アルシノフ
「コミンテルンとスペイン内戦」 E・H・カー
「経済学・哲学草稿」 マルクス
「はつ恋」 ツルゲーネフ
「中原の虹」 浅田次郎
「挫折の昭和史」 山口昌男
「羆嵐」 吉村昭
「宇宙の戦士」 ハインライン
「三十三年の夢」 宮崎滔天
「蹇蹇録」 陸奥宗光
「三酔人経綸問答」 中江兆民
「最終戦争論」石原莞爾
「一下級将校の観た帝国陸軍」 山本七平
「北一輝論」 松本健一
「愛情はふる星のごとく」尾崎秀実
「敗走記 」水木しげる

私の読書傾向と似ているな―と云う最終的な感想。

私には巨匠という安彦良和氏を見る視点はまるでないので、そちらの方面にこそ意義があると言う方もぜひ、若い時のわけが分からないまでも、一生を決め得た「個」の束縛を収奪されてたまるか。国家にも、政治運動にもという視点からもどうぞ読んでいただきたい。

魔女:加藤恵子