情熱的読書人間・榎戸 誠
私は鹿島茂の読書力を高く評価している。その鹿島が、これまた名うての読書家たちと、これはという一冊について本気で論じ合っているのだから、『この1冊、ここまで読むか!――超 深掘り読書のススメ』(鹿島茂・楠木建・成毛眞・出口治明・内田樹・磯田道史・高橋源一統著、祥伝社)が面白くないはずがないではないか。
鹿島は、「書評の目的は、読まれるに値する本を強く推薦することにある」と断言している。徒に書評を書き散らしている私も、同じ気持ちで取り組んでいる。
個人的に、とりわけ勉強になったのは、出口治明×鹿島の「中国社会に孔子が登場した背景」である。
「●出口=そういう社会で、なぜ孔子のような人が生まれたのか。これには2つの説明があります。1つは、ヤスパースが『枢軸の時代』と呼んだ紀元前500年前後にプラトン、アリストテレス、孔子、ブッダといった賢い人たちが世界中で生まれています。昔は『なんでこの時期に一斉に天才が現れたんや!』と不思議に思われていましたが、いまの歴史学では『地球が暖かくなったから』というわかりやすい説明がなされています。ちょうど鉄器が普及したのと同じ時期ですね。気候が温暖になって、鉄器が普及したので農業の生産性が急上昇した。すると食糧の備蓄ができるので、『賢い人は農作業しないで勉強しとったらええわ』という余裕が出てくる。だから天才が能力を発揮できたというわけです、もう1つ、中国の歴史に即して説明する方法もあります」。これは「威信財交易」により説明するものである。「戦国時代になるとさらに世の中が豊かになったので、インテリゲンチャは2つに分かれます。1つは、役人になる人たち。『戦国の七雄』という王様に仕えて文書を書いたり、下っ端のほうは県庁に行ってその文書を受け取ったりするわけですね。その一方で、社会が豊かになったのだから、インテリとして格好いい言説を弄すれば養ってくれる人がきっといるだろう、ということで野に出ていく人もいるわけですね。この人たちが、諸子百家になった。孔子もその中から登場したわけです」。
内田樹×鹿島の「どうして、マルクスの書く政治ドキュメンタリーはこんなに面白いのか」も、頗る面白い。
「●内田=(18)48年の市民革命に挫折して、アメリカに移民してきたばかりのこの『48年世代』を読者にしてマルクスはどうしてフランスにおいて歴史的必然性のある二月革命が失敗して、その後に何の政治的理想も持たない二流の政治家(=ルイ・ボナパルト)が権力を得ることになったのか、そのプロセスについて書いているわけです。読者たちはいわばこの世界史的な事件の当事者たちです。自分たちがいったい、どのような政治史的文脈のうちで敗北を喫したのか、それをぜひ知りたい、そういう熱い思いを抱いているはずの読者に向けてマルクスは(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を)書いているわけです。だからこそこのドキュメンタリーは実にわかりやすく、説明としてすぐれているのだと思います。・・・ほぼ10日に一度、『トリビューン』の読者たちはマルクスの記事を読んだことになります。それはちょうど南北戦争が始まる前の10年間に当たります。アメリカのリベラル派市民たちは『トリビューン』を読んで、世界中の出来事について、イギリスの帝国主義やインドの植民地支配や清朝の没落やアメリカの奴隷制度などについてのマルクスの精密で切れ味のよい分析を読み続けていたのです。これがアメリカ社会の世論形成にまったく影響を与えなかったということは考えられません。ですからその後に南北戦争が始まったときには、アメリカのリベラル派はためらうことなく北軍に志願することになった。・・・そもそもリンカーンとマルクスが同時代人だったことに世界史の教科書を読んでいるだけでは気がつきません。でも、リンカーンの大統領再選のときに、第一インターナショナルを代表して祝電を送ったのはマルクスなんです。そして、リンカーンはそれに対して在英アメリカ大使を通じてマルクスに感謝の言葉を返している。アメリカとマルクスのあいだには深い因縁があるんです」。
磯田道史×鹿島の「『量』と『質』が研究の両輪」でも、興味深いことが語られている。
「●磯田=後年、統計数量による歴史叙述をやるときも、速水(融)先生は『こういう数字の背景にある人の生活の質の中身は徹底して押さえなければいけない』と、折に触れて言っていました。現地・現場の『質』の話と、統計に現れる『量』の話を両輪にして詰めていくのは、やはり歴史社会学や社会経済史、民生学などの醍醐味だと思いますね。●鹿島=私がルイ・シュヴァリエの『労働階級と危険な階級』のすごさに気づいたのは、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の読み解き方なんです。『レ・ミゼラブル』には、テナルディエという悪党が出てきますが、彼の悪党仲間はアニメみたいなキャラなんで、文学研究者はリアリティがないと馬鹿にし、歴史家は参考になる事実は読み取れないと考える。ところが、シュヴァリエは、こうした悪党たちの生態を記述するヴィクトル・ユゴーの筆使いに時代特有の恐怖が現れていると見抜き、その恐怖は、人口統計が示している時代の無意識とリンクできると考えたんです。書かれた内容ではなく、記述自体、フランス語でいえばシニフィエ(=意味されているもの)ではなくシニフィアン(=意味しているもの)のほうに、むしろ意味があるということを読み解いたわけです。シュヴァリエはシニフィアンに読み取れる無意識の恐怖をパリ市のデモグラフィックな変化と結びつけたんです。これがすごいと思います。・・・シュヴァリエ以前の歴史学では、バルザックは正確だから部分的に使っていいけれど、ヴィクトル・ユゴーは出鱈目だから使っちゃダメということになっていたんです。ユゴーの中に歴史なんか探すのは邪道だと思われていた。だからユゴーには歴史のほうからも文学のほうからもあまりアクセスがなかったのですが、僕はたまたまシュヴァリエと出会ったことから、ユゴーの潜在可能性に気づいたんです」。
読み応え十分な一冊である。