をかし
闘争をつつむ明るい盲想、いとをかし

わが盲想

わが盲想

『わが盲想』モハメド・オマル・アブディン(ポプラ社)

タイトル買いした。日本語が巧すぎる全盲の外国人による日本滞在奮闘記。

著者は日本に来た最初の3年間を福井県で過ごした。日本語も点字もおぼつかなかった彼を福井県にあった学校だけが受け入れてくれたからだ。都会好きで暑い地方に育った彼にとっては不本意な土地だった。でも受け入れてくれたことに感謝してその地で奮闘した。
寮が閉まる週末は、ホストファミリーの父親から親父ギャグを聞かされ続け、そのうち自分でもダジャレを作りはじめた。同音異義語を見つけるのは、音から入る彼にあっていたのだろう。ぐんぐん語彙を増やしていった。一方で、「留学」は「流学」としたほうが意味の通りがいいのではないかと、語義のとらえ方に抵抗する場面もある。この時期の訓練が本書のタイトルに長じた。

著者は出会った人々の話をとても素直に聞く。彼のそうした態度は、育った家庭環境の良さもあるだろうが、やっぱり盲人だということが少なからず影響しているだろう。母国スーダンにいた頃、学校ではクラスメートに教科書を読んでもらっていたという。本人は威圧的にやらせたとジョークを交えて書いているが、いったん読んでもらう側になれば、読む人とその内容を信頼するしかない。目が見えないことが、ある部分は他人に任せきるという受容の姿勢を作ったのだと想像する。著者の生き方は、人間の基本に忠実なのだ。

また、彼がダジャレに親しんでいく過程を読んでいた時、ちょうど私の目の前にいた幼児が「形合わせ」で遊ぶ姿と重なった。遊びながら存在を確立していくことは人間の営みの根底にあったものだと、著者と子供の姿を見ながら思い出した。

こうした著者の生き方に接すると、これは、年齢や障害の有無や国境などいくつにも細分化された社会を意識した生き方に対して、真にユニバーサルな生き方だと思った。境界を超える(グローバル化)というよりも、境界のない世界。この姿勢が、著者が母国から遠く離れた異文化で長く生活してきたカギなのではないか。

母語でない言語で一冊の本を出すのだから優秀な人だ。現在、東京外国語大学院でスーダンの紛争問題と平和について研究している。だが、タイトルのダジャレに現われているように、賢さをすっぽり包むユーモアに共感した。
本書の文章は読みやすい。情景がぱっと広がる分かりやすい文章だ。なんとなく俳句っぽい。聞いて、触れたものをありのまま書いている。生き方が表れていると思った。
(よしの)