日本の裁判官は、精神的「収容所群島」の「檻」の中の囚人たちだ
私の長い読書経験の中で最も重要な一冊と思える本に出会うことができた。
『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著、講談社現代新書)を読んで、本当に絶望的な気持ちに襲われた。裁判官として、また民事訴訟の研究者・学者として高い見識と豊富な経験を有する著者が剔抉した現代日本の裁判所・裁判官の病態が、あまりにも深刻で絶望的だからである。しかし、本書は痛烈な警世の書で終わってはいない。優秀で、かつ一般の人々の心情に寄り添える弁護士が裁判官になる「法曹一元化」に、著者が希望を見出しているからだ。「国民、市民の自由と権利が侵害されていくときに踏みとどまってくれることは、(自らの出世や勤務評価に極めて敏感な、上に)追随型の裁判官にはまず期待できないが、(法曹一元化後の)独立型の裁判官であればそれが期待できるからである」。
「私は、33年間裁判官を務め、そのかたわら、20年余りにわたって、民事訴訟法等の研究や執筆、学会報告を行い、その後明治大学法科大学院の専任教授に転身した。現在の私は純粋な学者であるが、私は、学者の役割の一つは、たとえそれが苦いものであるとしても、事実、真実を人々に告げ知らせることであると考えている。そして、大変ショッキングな真実をここで述べると、あなたは、つまり一般市民である当事者は、多くの裁判官にとって、訴訟記録やみずからの訴訟手控えの片隅に記されているただの『記号』にすぎない。あなたの喜びや悲しみはもちろん、あなたにとって切実なものであるあなたの運命も、本当をいえば、彼らにとっては、どうでもいいことなのである。日本の裁判所、裁判官の関心は、端的にいえば、『事件処理』ということに尽きている。とにかく、早く、そつなく、『事件』を『処理』しさえすればそれでよいのだ。また、権力や政治家や大企業も、これをよしとしている」。
「職人タイプの裁判官が日本の裁判の質を支えていたわけである。しかし、上層部の劣化、腐敗に伴い、そのような(日々誠実にこつこつと仕事をしてきた平均的な裁判官である)中間層も、疲労し、やる気を失い、あからさまな事大主義、事なかれ主義に陥っていったのである」。
「良識派は上にはいけないというのは官僚組織、あるいは組織一般の常かもしれない。しかし、企業であれば、上層部があまりに腐敗すれば業績に響くから、一定の自浄作用がはたらく。ところが、官僚組織にはこの自浄作用が期待できず、劣化、腐敗はとどまるところを知らないということになりやすい。だからこそ、裁判所のような、国民、市民の権利に直接に関わる機関については、こうした組織の問題をよく監視しておかなければならないのである。また、だからこそ、裁判所の官僚組織からの脱却、人事の客観化と透明化、そして法曹一元制度への移行が必要なのである」。
「最高裁判所事務総局の支配、統制の特色について論じておきたい。それは、たとえていえば、『目に見えない檻』のようなものである。限られた範囲に安住している限り、その檻は見えないし、その鉄格子が気になることもない。しかし、いったん立ち上がり、みずからの信じるところに従って裁判や研究を行おうとすれば、たちまち、見えなかった鉄格子にぶつかることになる」。「日本の裁判所は、実は、『裁判所』などではなく、精神的被拘束者、制度の奴隷・囚人たちを収容する『日本列島に点々と散らばったソフトな収容所群島』にすぎないのではないだろうか? その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして、人々の権利や自由を守ることができようか? みずからの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、市民の基本的人権を守ることができようか? これは、笑えないパラドックスである」。「日本国憲法第76条に輝かしい言葉で記されているとおり、本来、『すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される』ことが必要である。しかし、日本の裁判官の実態は、『すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される』ことになっており、憲法の先の条文は、完全に愚弄され、踏みにじられている」というのだ。
「統治や支配の根幹に触れる事柄に関する最高裁の判断、また、裁判官一般の考え方が、いかに権力寄りにバイアスがかかっており、また揺るがないものであるかということが、おわかりいただけたのではないかと思う」。
著者によって、近年の裁判所上層部の腐敗の実態が次から次へと暴かれていくが、私などは司法制度の一歩前進と感じていた裁判員制度導入さえも上層部の陰謀と知り、明らかにされたその舞台裏には驚愕した。
本論はもちろんであるが、個人的には、2つの言及にも目を惹きつけられた。1つは倉田卓次についての箇所であり、もう1つは『地栽の人』に関する部分である。
「かつて、倉田卓次という有名な学者裁判官がいた。私より30年余り年上で、思弁的SM小説『家畜人ヤプー』の著者ではないかということで一時一般的にも話題になった方である(もっとも、御本人は否定されている)。この方も、晩年に、『判決も論文も私的な文章も書けるという後輩は30年ぶりです。がんばって下さい』といった内容の、私を励ます手紙とメールをいくつも下さった。・・・この方は、もちろんその本質においては繊細であったと思うが、外面的には、きわめて個性的、積極的、豪快で、一見するとおとなしそうにみえる私などとは違って、議論も論争も派手にやった。当然、裁判官の中には、彼をきらう人や嫉妬する人も多かった。それでも、倉田さんは、61歳で身体をこわして公証人となるまで、みずからの意思で裁判官(東京高裁判事)を続けた。エッセイを読むと、色々不快なこともあったようだが、裁判官という職業には最後まで満足されていたように思われる」。
裁判官という立場上、本人は否定せざるを得なかったのだろうが、世界に冠たる奇書『家畜人ヤプー』の真の著者は倉田だと私は確信している。彼のエッセイ集『続 裁判官の書斎』(倉田卓次著、勁草書房。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を読んでも、その裁判官としての識見の高さと専門領域を超えた幅広い教養の深さが窺える。この本には、司法試験受験生に向けた「頭休めに本を読め――学生諸君へのアドヴァイス」といったエッセイなどが収められている。
「もういささか古くなったが、たとえば、漫画『家栽の人』(毛利甚八原作、魚戸おさむ作画、小学館、全15巻。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)にも、このパターナリズム(家父長主義)の思想がよく現れている。高裁長官(後に最高裁判事となる)の息子である桑田判事は、きわめて優秀であるにもかかわらず、地方の家裁やその支部を希望して赴任する。時にはみずから出向いて事実関係を調べ、家父長的な温情主義によりつつ厳格さをも交えるというこの裁判官は、明らかに、大岡越前や遠山の金さんの、より洗練された現代版である。・・・私自身は、もしも自分が裁判を受けるのであれば、桑田判事のような一種の超人、スーパーマンにではなく、優秀で視野も広いが、自分の能力とそのなしうることの限界については謙虚に認識している普通の人間である裁判官に担当してもらいたいと考える」。こうコメントされると、当時、『家栽の人』に感動した私としては、複雑な気持ちである。
「私は、日本の国民、市民は、裁判所が、三権分立の一翼を担って、国会や内閣のあり方を常時監視し、憲法上の問題があればすみやかにただし、また、人々の人権を守り、強者の力を抑制して弱者や社会的なマイノリティーを助けるという、司法本来のあるべき力を十分に発揮する様を、まだ、本当の意味では、一度としてみたことがないのではないかと考える」。全く、そのとおりだ。
著者は、この状態から脱するには、「司法制度改革を無効化し悪用した(最高裁裁判所)事務総局解体」が何よりも重要だとし、その実現には法曹一元化の採用・導入が必須と主張している。今こそ、司法を国民、市民のもとにという強い危機感と熱い思いが伝わってくる、著者渾身の力が込められた一冊である。