乃木希典は、司馬遼太郎が描いたような無能の将軍ではなかった
司馬遼太郎は、『坂の上の雲』(司馬遼太郎著、文春文庫、全8巻)で、乃木希典(まれすけ)の無能ぶりを暴くのと対照的に、児玉源太郎の優秀さを強調している。この司馬説に『日露戦争陸戦の研究』(別宮暖朗著、ちくま文庫)が真っ向から反論していると、年長の畏友・立道肇から教えられ、早速、手にした。
日露戦争中の一局面。「松川(敏胤、少将)・井口(省吾、少将)両参謀はこの戦いの間、しきりに首山堡方面からのロシア軍の突出(=攻勢移転)を懸念した。もし、ロシア軍のこういった部隊運用の仕方を知れば、これがないことが分かるはずであった。本来、首山前面には少数の兵を置き、全体を東に移し、太子河を多点で渡河すべきであった。あげく、首山堡戦における大量の犠牲を落合豊三郎第二軍参謀長のせいにした。しかし落合参謀長こそが、首山堡陣地が堅固であることを見取り、遮二無二に攻撃することを押し止めたのであった。司馬遼太郎は第二軍や落合を批判して、『落合の見込みは、はずれた』『奥軍は、軽戦で敵をしりぞけつつすすんだが、首山堡にいたって状況が一変し、攻守ところを変えるほどに手ひどい打撃をうけるのだが、落合は最初それでも戦況の理解に柔軟性を欠いた』(『坂の上の雲』四)と書くが見当違いであろう。第二軍は、東支鉄道南満線に沿って進軍したため、南山・得利寺・大石橋ともっとも苦難の戦いを強いられた。『軽戦』とは何の謂であろうか? また、攻守ところを変えてなどいない。落合豊三郎参謀長はこの戦いのあと革職(免職)された。『孫子例解』を書くほどの博学家であったが、総司令部と対立すれば、どのような仕打ちを受けるか理解できていなかったのかもしれない。もちろん落合の臨機の判断によって、多数の将兵の命が救われたことは歴史的事実である」と、辛辣である。
著者は、「乃木希典は智将であった。ドイツに留学したが、ドイツ軍事学の形式主義と合理主義双方を学び、両立させることに悩んだ。明治陸軍の中で、ボルトアクション式小銃の開発による戦争の変化に気づいた数少ない将軍の一人であった」と、絶讃している。
これに対して、司馬の乃木評価はどうか。「『第一次、第二次、第三次、という各段階の総攻撃はことごとく失敗です。失敗ということばさえ不適当な、つまり零敗です』(『歴史の中の日本』中央公論新社)と司馬遼太郎は書いたが、乃木希典への反感からであろうか。旅順攻防戦の第一回総攻撃から最後の松樹山堡塁攻略まで、『旅順要塞は攻略されねばならない』という一貫した戦略の下、日本軍はあらゆる戦闘で(ロシアの)要塞守備兵に打撃を与え続けた。どの戦闘も決して日本の零敗ではなかった。近代戦において、一方的に打撃を与えることは不可能であり、互いの損耗について覚悟しながら司令官は戦闘を命令するしかない。旅順における日本側の損害をもって、乃木を非難することは、果たして妥当であろうか」。
著者は児玉の弱点を具体的に指摘する。「赫々たる奉天会戦の大勝利にもかかわらず、ロシア軍依然健在という(ロシアの)宣伝にのせられ弱気に陥ったのは日本の満州軍総司令部、とりわけ児玉源太郎(大将)であった。・・・(児玉は)『戦争を始めたものは適当の時期において戦争を止める技量がなからねばならぬ』と力説した。現代では、これは時宜を得た至言のようにいわれる。司馬遼太郎は、このときの児玉源太郎の心境について、『日本軍が作戦能力において圧倒的優位にたち、兵力の寡少をおぎなってようやく六分四分に漕ぎつけたいま、この好機をとらえて講和工作を進行しなければ、児玉としては今後もなお過去のように日本軍が常勝をつづけることができるか保証することができなかった』(『坂の上の雲』七)と描写する。・・・児玉の『講和工作』についての考え方は根本的に誤っているのではないか? ・・・児玉にはもう一つ別の思い込み『戦争を始めたものは日本』があった。・・・ニコライ二世は、日英同盟(公開条約であった)がこれによって発動されることを承知しながら、弱い『猿』に過ぎない日本人が立ち上がることはないと信じ込んだのであった。戦争を始めたのはロシアなのである」。
実際に作戦を担った参謀はどうだったのか。「満州軍総司令部の中心的存在であった」「井口・松川両参謀の遼陽・沙河・黒溝台・奉天会戦における作戦計画は拙劣であった。拙劣でなければ、このような遅い前進にはならない。・・・井口・松川両参謀にドイツ留学時の勉学が不足していたのは確実であるが、(大モルトケの推薦により日本に招聘された)メッケルの教授も不十分であった。包囲そのものは近代戦術の基本であるが、翼端や軸に有力な部隊を配置しなかった結果、いつも有力現役師団は遊兵と化してしまい、後備旅団や騎兵旅団が『最後の一兵まで戦う』という悲惨な状態に置かれてしまった。ただし、後備兵や騎兵は装備が劣っていたにもかかわらず、驚くほど強靭な戦いぶりで最終的に勝利した」というのである。
「『白を黒と言いくるめ、議論に勝とうとすることだけがメッケル式陸大教育だ』(『兵術随想』今日の問題社)と陸大校長を2回務めた飯村穰は喝破した」。
「満州軍総参謀長児玉源太郎は、参謀の長として作戦計画策案に参画したことによって国民から英雄視されたのではなく、大山巌(元帥)を将と仰いで、満州軍統率を補佐したことが賞賛されたのであった」。児玉は基礎的策案能力が疑われる井口・松川両参謀に作戦を任せ過ぎたというのが、私の見解である。
そして、乃木と児玉に対する司馬と著者の評価が正反対なのはなぜか。司馬はどの作品であっても、書き出す前に関係史料を細大漏らさず、神田神保町の古本屋で買い漁ったといわれている。史料を読み込んだ司馬は、そこから乃木や児玉の人物像を造形したのであろうが、そこに思わぬ誤算が生じたのだと、私は考えている。なぜなら、参謀たちは自分たちに都合のよい史料を作成することができたが、将兵たちにはそういう方法がなかったからである。「日本の参謀は天皇の官吏であって身分が守られていた。日本では加えて、参謀本部や司令部という組織の中で互いに庇いあい、責任を免れようとする。そのうえ参謀は戦後になって戦史そのものを書いて『公刊戦史』や『秘密戦史』を刊行する利権をもっている。これもドイツ参謀本部の伝統であり、英米では第三者に委任する。参謀たちはつくった作戦計画を自画自賛し、失敗を将兵に帰する。断乎として戦った将軍、軍旗を捧持して離さなかった連隊旗手、数倍する敵に相対して持ち場を離れず戦死していった兵士はかえって貶されるのである。それでも同じ時代の将兵は参謀が理屈家に過ぎないことを知っており、国民も誰が本当の英雄か分かっていた。鴨緑江と遼陽饅頭山で戦った黒木為楨、旅順を攻略した乃木希典、得利寺で快勝をもたらした小川又次、本溪湖で孤塁を守りきった梅沢道治、沈旦堡で惨戦を担った秋山好古が本当の将軍とみなされたのであった」。
『坂の上の雲』の主人公の一人・秋山好古(兄)が登場したところで、もう一人の主人公・秋山真之(弟)にも触れておこう。明治天皇が出席した御前会議の「満座の中で伊集院五郎軍令部次長が秋山真之連合艦隊司令部参謀による名文の報告書を読み上げると、皆感動で目頭を押さえた」。
「参謀本部の日露戦争事前作戦計画策案は不首尾であり、その参謀本部がそのまま出征した満州軍総司令部の作戦も失敗の連続であった。それに反して、日本兵の戦闘振りは見事であった。現場にいた将軍の指揮も優秀であった。帝国陸軍は現場が優れ、エリート参謀のつくる作戦計画がいつも劣っていた」というのが、著者の結論である。
さらに、「政治家が誤ったエリート意識に燃える官僚を統御することは容易ではない」と、著者は、軍の参謀と現代の官僚を重ね合わせている。