戦後日本の一番優れた政治家は、やはり吉田茂だった
好きな政治家、嫌いな政治家の名前は簡単に答えられるが、戦後日本の政治家の中で一番優れた政治家は誰かということになると、そう簡単には結論が出せない。ところが、『吉田茂と昭和史』(井上寿一著、講談社現代新書)を読み込むことによって、答えが見えてきた。
戦後の政界の構図を、「自立」対「対米協調」、「統制」対「自由」の観点から見ると、「自立+統制」の代表的人物が岸信介、鳩山一郎、「自立+自由」に位置する人物が石橋湛山、「対米協調+自由」を推進したのが吉田茂――だと、位置づけている。
日中戦争下まで時計の針を巻き戻してみよう。「日本はアメリカとの戦争を意識するようになる。(駐英大使のポストを離れた)吉田はぎりぎりまで対米戦争回避の努力をつづける。・・・しかし手遅れだった。すでに前日の(昭和16<1941>年11月)26日、機動部隊が真珠湾をめざして出撃していたからである。吉田の対米戦争回避の努力を押しつぶしたのは、東条(英機)内閣の意思だけではなかった。東条の背後には、名もない、しかし圧倒的多数の国民がいた。吉田は、東条だけでなく、無名の国民を前に、敗北した」。
戦争末期の「昭和20(1945)年4月、憲兵隊が終戦工作を画策していた吉田を検挙する。約40日に及ぶきびしい取り調べと拘禁ののち、吉田は囚人服姿のままで、戻ってくる。その屈辱感は想像に余りある」。
やがて迎えた日本の敗戦は、吉田にとっては解放であった。「東条の憲兵政治による国家社会主義化した日本の敗北が悪かろうはずがない。状況は180度転換した」。吉田は好機到来と戦後構想を練り始める。
外相となった「吉田はマッカーサーを高く評価する。マッカーサーは『日本を知ること深い上に、私の感じたところ、実に物わかりのいい人』だった。吉田はマッカーサーを『優れた武将であるとともに、識見も高く、占領政策の実施面においても、いずれかといえば、現実的、実際派的であった』という。・・・吉田にとってマッカーサーは、天皇制存続のためのもっとも頼りになる協力者となった」。
「それでも吉田は不安だった。占領軍の指令が予想をはるかに超えるきびしいものだったからである。吉田は外相官邸で、早朝から邸内の空き地を檻のなかの虎さながらに行き来した。夜中、眠れぬままに起き出して、焼け跡だらけの近所を散歩した。頼りになるのは白洲(次郎)だった。イギリスの名門大学を卒業し、教養と英語力のある白洲は、反骨のナショナリストでもあった。占領軍と渡り合っていくためには、白洲の存在が欠かせなかった」。
吉田や白洲に驚くべき情報がもたらされる。占領軍の象徴天皇制に基づく大日本帝国憲法改正案である。「吉田にとって日本の最優先課題は、主権を回復し、ふたたび国家として独立することだった。この課題を達成するために憲法改正を受け入れなくてはならないのであれば、『立法技術的な面』などにこだわることなく、そうする。憲法改正問題をアメリカとの『外交』と考える吉田は、マッカーサーの政治的な意図を見抜いていた。吉田は『マッカーサー元帥が、極東委員会や対日理事会の険悪なる空気を顧みず、いや、顧みたからこそ、先手を打って、わが皇室制度を擁護するために、新憲法の制定を始め、各種の深謀遠慮的措置を講じた』と述べている。吉田にとってマッカーサーは、国際的な非難から天皇制を救い出すための協力者だった。吉田はマッカーサーに対して『多大の敬意と謝意とを表せざるを得ない』と感謝した」。
首相となった「吉田が最優先で取り組んだのは、これらの戦後改革ではなく、経済危機の克服であり、経済復興をとおしての国家的独立の回復だった。・・・占領の現実は苛酷である。アメリカの対日占領政策の基本方針は、日本の非軍事化であり、そのための民主化だった。経済復興は優先順位が低い。懲罰的な占領政策は、日本の経済復興を戦前の経済成長のピーク以下に抑えようとする。占領軍から戦後復興に対する支持を調達するためならば、吉田は戦後改革で譲歩した」。吉田は念願とする独立回復に向けて、強かに占領軍と対峙したのである。「吉田が全国民に好感をうけつつ、マッカーサーに嫌われているのは、彼マッカーサーの命を是々非々とする傲岸不屈の性にある」と、山田風太郎が『戦中派闇市日記』に記している。
「第三次吉田内閣は保守連立政権として成立する。政権基盤を強固なものとしたうえで、吉田は何をめざしたのか。講和と経済復興だった」。独立の回復を成し遂げるには経済復興が必要だと信じる吉田は、この目標に向かって邁進する。
しかし、障害が立ち塞がる。「アメリカ政府内の講和尚早論にどのような譲歩を示すことで、講和を獲得すべきか。譲歩の具体的な内容もふくめて、吉田はどうすべきかを熟知していた。問題はデリケートで扱い方如何によっては、重大な事態を引き起こしかねない。事は秘密裏に進めなくてはならなかった」。信頼できるカウンターパートのジョゼフ・ドッジとの交渉を密かに進めたのである。
「朝鮮戦争が拡大していた。吉田は対米交渉の際に、アメリカ側が再軍備を要求してくるものと予想した。『私としては平和条約前は再軍備しないとの建前でやっていきたい』との立場に立つ吉田は、再軍備の代替案を助言者グループと外務省に求めた。・・・J・F・ダレス特使と吉田との会談は、日米両国の立場のちがいを明らかにした。ダレスは独立を急ぐ日本側に不平を漏らす。軍事的貢献を要求されたと解釈した吉田は反論する。『再軍備は日本の自立経済を不可能にする。対外的にも日本の再侵略に対する危惧がある。内部的にも軍閥再現の可能性が残っている』」。「これ以上首脳レベルでの会談をつづけても、交渉打開の目途が立たない。落としどころを探し求めて、吉田は外務省に再調整を命じる。それは5万人規模の『保安隊』を創設するという案だった。ダレスがこの程度の再軍備に満足することはなかった。しかしダレスは妥協した」。
昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約が遂に成立する。「多くの困難を抱えながらも、講和に漕ぎ着けたことは、吉田に達成感をもたらした。吉田と苦楽をともにした西村(熊雄)は、『この重大なサンフランシスコ体制を困難な条件の下にほとんど一人で成立させ、戦後5年独立回復を渇望していた国民に独立と自由の喜びを与えられた』と吉田の偉業を称えた」。
「鳩山の後継の石橋(湛山)内閣が短命に終わったのち、昭和32(1957)年2月、政権の座に就いたのは岸信介だった。・・・岸は、安保改定と憲法改正をめざした。安保改定は、昭和35(1560)年に実現する。・・・岸は安保改定のつぎのステップを構想する。それは憲法を改正し、『日米対等の意味における真の相互防衛条約』を結ぶというものだった。しかし岸は憲法を改正することができなかった」。
岸の次に政権の座に就いたのは、吉田の側近中の側近の池田勇人であり、池田の後継は岸の実弟ではあるが、「吉田学校」の優等生の佐藤栄作であった。池田、佐藤は吉田路線を継承、発展させていく。
国際政治学者の高坂正堯が、敗戦国にも拘わらず、日本はなぜこれほど短期間のうちに先進国となることができたのかという国民が抱く疑問に明確な答えを示している。「『商人的国際政治観』を持つ吉田が『完全非武装論と憲法改正論の両方からの攻撃に耐え、論理的にはあいまいな立場を断乎として貫くことによって、経済中心主義というユニークな生き方を根づかせた』から」だと、吉田を高く評価した。
また、国際政治学者の永井陽之助は、このように評している。「『防衛力最小限に徹した保守本流』の創始者吉田は、朝鮮戦争前後に現われた『軍事支出と武器輸出に依存する軍事ケインズ主義』という『甘い誘惑に抗して』、『今日の非核・軽武装・経済大国』を築いた功績者だった』」。
吉田が、骨のある反戦主義者であったこと、そして、失った主権の回復という国益のために、アメリカに面従腹背して信念を貫き通した強かな政治家であったこと――は、敗戦後の我が国にとって幸運であったと言えるだろう。現在の政治家たちが吉田の生き方に学ぶことを期待するのは、土台無理な話なのだろうか。